東京小唄・清元・三味線教室

女殺油地獄

投稿日:2018年2月25日

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近松門左衛門(1653-1725、代表作は『曽根崎心中』『冥土の飛脚』)の世話物の代表作『女殺油地獄』を国立劇場で鑑賞してきました。

享保6年(1721年)5月4日夜に起こった殺人事件を元に執筆され、2ヶ月後の7月15日に人形浄瑠璃として竹本座で初上映されました。
当時は時代物が人気があったことや、インパクトが強すぎたせいか、その後、長く上演されませんでしたが、不良青年の与兵衛の人物造形や残酷さの中に美しさがひそむ「殺し」の場面が注目され、明治になってから坪内肖遥が「近松研究会」で取り上げ、明治42年(1909年)に歌舞伎で再演され大絶賛されました。文楽での復活は更に年月を経た昭和27年(1947年)でした。
禍々しい題名が示す通り、甘やかされて育てられた23歳の青年、河内屋与兵衛が店の金を持ち出して新町の遊女に入れあげた挙げ句、多額の借金を作り、同業で馴染みの人妻、豊島屋お吉に無心をするが断られ二進も三進も行かなくなったことから惨殺し金を奪って逃げるという話です。
この演目の最大の見せ場は「豊島屋油店の段」の「殺し」の場面です。
太夫の表現豊かな語りと太棹三味線が作り出す世界のなかで、二人がもみ合う内に油壺が倒れ床にこぼれた油の上でツルツル滑りながらの臨場感あふれる「殺し」の場面を人形の動きだけで演じ、徐々に高まっていく感情が見事に表現されていきます。

最後に『文楽の歴史』について紹介させていただきます。
人形浄瑠璃文楽は、日本を代表する伝統芸能の一つで、太夫、三味線、人形が一体となった総合芸術です。その成立ちは江戸時代初期にさかのぼり、古くはあやつり人形、そののち人形浄瑠璃と呼ばれています。
竹本義太夫の義太夫節と近松門左衛門の作品により、人形浄瑠璃は大人気を得て全盛期を迎え、竹本座が創設されました。その後、盛衰を繰り返し、幕末、淡路の植村文楽軒がはじめた一座が中心的な存在となり、やがて「文楽」が人形浄瑠璃の代名詞となり今日に至っています。
(文楽協会HPより)
mak

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