東京小唄・清元・三味線教室

動画コーナー

四万六千日

【解説】西条八十詩、中山小十郎曲。昭和三十六年の曲。
観音様の縁日は毎月十八日だが、これとは別に室町時代以降に「功徳日」と呼ばれる縁日が月に一度くわえられ、この日に参拝すると、百日分、千日分の参拝に相当するご利益が得られると信仰されてきた。中で七月十日の功徳は「千日詣」と呼ばれていたが、享保年間ごろより「四万六千日」と呼ばれるようになり、そのご利益は四万六千日分に相当すると言われるようになった。この縁日には「ほうずき市」が開かれる。

あの日から

【解説】 小野金次郎詩・中山小十郎曲
この小唄の主人公は下谷の若い芸者。薄情な花柳界の義理の枷から、会うまいと定めてもう九十日、冬の夕暮時お座敷着のままで不忍の池のほとりに来て、片かげりの陽をうけた枯れすがれた蓮を見ていると、偶然その人に出合った。「どうしてる」と肩に手を置かんばかりにその人がいった時、女はただ一言、「こんなに痩せましたわ」とつぶやく。会えたといっても会わなかったと同じで、二人はただ別れるだけである。(昭和小唄 その二 木村菊太郎著)

心して(鶴次郎)

原作は昭和十年に第一回直木賞を受賞した川口松太郎の小説「鶴八鶴次郎」。大正時代を舞台としたもので、昭和十三年に明治座で初演。鶴次郎(花柳章太郎)、鶴八(水谷八重子)の配役で昭和新派劇の傑作となった。この小唄はその大詰めの場面を唄っている。

晴れて雲間

清元の「夕立」の晴れたあとの情景を唄ったもの、清元「夕立」は河竹新七作の「白波五人女」の梅川の料亭の場に使われた「余所事浄瑠璃(よそごとじょうるり)」である。

浮気同士

明治中期の雰囲気をそのまま偲ばせる江戸小唄である。
大して惚れあってもいない浮気者の二人がどうした巡り合わせか、しんみりと四畳半で会うことになってしまって、お互いに固い夫婦の約束までしてしまうとはいったいどうした事か。
「貴方あの松風の音(茶釜の湯の沸る音)を聞いてごらんなさいよ、静かなお正月ですこと」

勝名乗り

大相撲の夏場所を歌ったもの。勝名のりを受けた贔屓にしている力士の後姿をうっとりと見ているのは「主と地取りがしてみたい」と言っているから女性。できることなら横綱になってほしい、そうしたら化粧回しを送りたいもの、その模様は隅田川・・・と色々夢想している。「アーエーから・・・ホホしてみたい」までは相撲甚句の名調子。

惚れて通う

添うに添えない人と知りながら、夢中になって通いつめる上方娘の激しい恋心唄った文政初年上方小唄である。
この上方小唄は、唄に色気もあり、調べもよくできているので上方で相当に流行り、幕末江戸に入って、端唄、」歌沢としてよく歌われたが、何も「山を越えて逢にゆく」までで、「どうした縁で」以下の歌詞は、明治になって、江戸小唄に作曲する時つけたものである。

伽羅の香り

伽羅の香りとこの君様は幾夜とめてもわしゃ止めあかぬ寝ても覚めてもわすられぬ (替唄) 夢の手枕つい夜が明けて別れ煙草の思いの煙おもうお方へとなびきゆく (解説) 伽羅は昔から香木として最も品位の高いものとせられていたもので、この香を衣裳に移すことを「香をとめる」ともいい、女が愛しい君を毎夜泊めてもということと結びつけて、幾夜泊めても香木の香りは飽きないと唄ったものです。

縁かいな

「春の夕べ」という幕末から維新の頃の俗曲が元唄で、この「春の夕べ」は土佐太夫芝金直伝の唄として哥沢派に伝えられているが徳永里朝(安政2年〜昭和11年)という盲目の寄席芸人が「縁かいな節」として流行らせたという。この唄は明治の後半から大正にかけて大いに流行って、沢山の替歌が出来た。

どうぞ叶えて

江戸端唄からとった小唄である。柳島の妙見堂は、江戸時代には妙見大菩薩の霊験があらたかだというので、参詣人の絶え間がなかった。この小唄は妙見堂に逢いたい見たいと願をかける江戸の下町娘を唄ったもので、その初々しさが眼に見えるようである。(江戸小唄  木村菊太郎著より)

お伊勢参り

長右衛門は、京の押小路(上京区)虎石町の呉服店、帯屋の主人で四十五才の分別盛り。お半は隣家の信濃屋の娘で今年十三才のあどけない少女。この二人がお伊勢参りの帰り道、石部の宿(滋賀県)で、ふとした縁から不思議な契りを結び、それから5ヶ月、ただならぬ身体となったお半を背中に長右衛門は梅雨の桂川に心中するという「お長右衛門」の芝居からの小唄である。

夜桜や

文化年間の吉原の夜桜を唄った上方小唄である。「浮かれ鴉がまいまいと」は吉原の客が「張見世」をのぞいて歩く様子を唄ったもので「浮れ鴉」は「吉原雀」と同じく浮かれ男が舞い舞い歩くのと毎夜毎夜とをかけた言葉である。「夜桜」を見にゆこうと言えばつまり吉原へ行こうという意味になった(木村菊太郎著 江戸小唄より)

おしどり&浮気鶯

【おしどり】
江戸時代、籠の鳥のように外出を許されぬ廓の女は、好いた男との儘ならぬ逢瀬に、占や神頼みをするよりほかに道がなかった。「畳算」とは畳で是非、吉凶を占う方法で、どうぞ顔をみせてと念じつつ、煙管なり箸なりを投げて、その品物が横たわっている畳の編み目を数えて、丁ならば吉,半ならば凶とすることで(西鶴「重井筒」)吉と出ると鼠鳴きをして喜んだものであった。
 廓の女を「飛び立つほどに思えども、飛ばれぬ鴛鴦」にたとえた所は哀れである。無理に畳算を合わせて、夜通し待ったが、恋しい男の姿が見えず、じれったさに癇癪をおこしてかんだ長煙管の歯のあとが二つ三つ四つ、夜明けの星のように残っているという意味である。

【浮気うぐいす】
早春のさえずりもととのわぬ若い鶯が、庭先の梅に来て、2,3日啼いたかと思うと、もう隣の桃の木でさえずり始めたという唄の意味で、若い女性(男性?)の浮気な心を唄っています。ホーホケキョウの約束・・・というのがオシャレですよね。
文化文政の俳人雨橋の句に「鶯の隣あるきや桃の花」から幕末の「浮気鶯梅をば捨てて隣あるきや桃の花」に転じ、この唄になったという説も・・・奥が深いですね。
「こませもの」・・・早熟な小利口なものをいう。

花の雲(助六)

川上渓介詞、宮川吟柳曲。昭和十一年の作。
寛永寺か浅草寺の鐘の音の響く中、日本堤(土手八丁)から衣紋坂を通って、吉原の大門をくぐる紫の鉢巻きの助六に、花魁達から吸い付け煙草の煙管が雨の様に差し出される様を唄っている。唄い出しの「花の雲鐘は上野か浅草か」は芭蕉の句。花魁を助け、髭の悪役に立ち向かった正義の味方、江戸一番の持て男。助六を「助六所縁江戸櫻」という外題で上演するのは成田屋で歌舞伎十八番のひとつ。
上演すれば必ず大入りになるという人気演目である

向島名所 東京キモノショー

文字通り向島の名所を唄っている
竹屋の渡し=山野堀りと向島三囲神社を結んでいた。「竹屋」の名は付近にあった茶屋の名に由来するという。昭和八年の言問橋架橋前後に廃止された。
上げ花火=徳川吉宗が大飢饉とコレラ流行による死者の霊を諫めるために享保十八年に大川端で花火を打ち上げたのが隅田川の花火の始まり。
言問い団子=江戸時代に向島で植木屋を営んでいた外山佐吉が団子やを始めたが明治になり在原業平の故事に因んで「言問い団子」と名付けた。
桜餅=享保二年、向島の長命寺で門番をしていた山本新六が考案し門前で売り出したものとされ「長命寺桜餅」とも言う。
土手の桜=将軍家光が上野寛永寺と共に隅田川堤に吉野の桜を植えたのが始まり。
百花園=文化二年開園。みどころは早春の梅と秋の萩である。

笠森おせん(鐘一つ)

「鐘一つ」は小林栄詩、春日とよ曲。一方「朧夜や」は春日とよ詩・曲で別の唄だが、春日派では、続けて唄うのが通例となっている。笠森お仙は、谷中の笠森稲荷前の水茶屋[鍵屋」の看板娘で実在した女性だが、鈴木晴信の美人画に描かれたことから、その美しさが江戸中の評判となり一世を風靡した今で言うアイドル。
「鍵屋」には連日、お仙を一目見ようと、江戸の町人が押し寄せ、お仙を画いた絵草紙、双六、手拭いなどが飛ぶように売れ、手毬唄、川柳、芝居の主人公にされたり、人形まで作られたとか。
鐘ひとつ売れぬ日もなし=鐘のように滅多に売れないものでも毎日売れるほど繁華だという意 土の団子の願事=願かけをする時には土の団子を供え、願が叶ったら改めて、米の団子を供える。
入相櫻=道成寺の入相桜が有名だが、ここでは単に黄昏時の桜の意。
笠森稲荷=谷中の感応寺境内にあった稲荷神社。

「白扇」小唄振り

上田哥川亭詞、吉田草紙庵曲。昭和九年作。
さる銀行の重役の銀婚式を祝って作られた唄で、「末」は奥さんの名を、 「まさる」はご主人の名を、「銀」は銀婚式と云うことを、読み込んだ ものだそうです。めでたい歌詞に荘重な節付けで、ご祝儀曲「末広」とし て広く唄われている。

水指/茶のとが 小唄振りと茶道のコラボ

2014年11月9日 第5回喜裕美会 三越劇場にて開催されました。
小唄振りと茶道のコラボレーションを演出致しました☆

新派劇 婦系図「湯島境内」

2018年4月22日 第6回 喜裕美会 三越劇場にて開催されました。
新派劇 婦系図より「湯島境内」で清元「三千歳」を演奏させていただきました。

秋の野に出て

安政以前の古い唄。秋の野に出て「虫聴き」や「七草見物」をすることは初秋の風流な行事であった。美しい花を見ながら野を歩いていると、萩や芒の葉先から秋風に白露がこぼれ落ちて、小褄(着物の裾先のこと)が濡れかかる...よしてもくんなよ鬼あざみ。

秋の七草

秋の七草は萩、尾花、葛、撫子、女郎花、藤袴、朝顔(代わりに桔梗)です。
初秋、蛍の命は夏で尽きてしまうのが普通であるが時には秋まで残っていて淡い光を放っている。軒下の秋草の中から聞こえるのは松虫の鳴き声であるが、その鳴く声は恋しい人を「待つ」ように聴こえる、というのが君を待つ虫鳴く音に細る。
初秋の夜、秋草に残っている蛍の淡いひかりを見、松虫のすだく音を耳にしながら、恋心に悩む情景を唄ったしっとりとした江戸小唄である。(江戸小唄 木村菊太郎著より)

夕暮れ

端唄・歌沢の名曲であるが、もとは上方小唄として出来たものである。
初冬の隅田川の夕暮れ「待乳山」は台東区の隅田川に臨む小丘で聖天の森のある所。その上のかかる夕月の美しさと、満々たる大川を漕ぎくだる帆掛け船、それに飛び交う都鳥を唄ったものである。

上汐

上汐につれて繰り出す数々の船は面舵とりかじよ向こう鉢巻片肌ぬいできおいを競う江戸っ子が月と花火に浮かれつつ急いで漕ぎ出す川開きエエ西瓜にまくわ瓜はようがすかな玉子や玉子豆や枝豆東西うつし絵の儀は手元を離れ灯り先の芸当にござりますればお目まだるき処は幾重にもご容赦の程こい願いあげ奉ります。 従いましてここもとご覧にいれまするは日本は三景の内奥州は松島のていとございちょいときなせエエ押すな押すなじゃまだじゃまだそれ上がった玉やとほめてやろうじゃないかいな

散るは浮き・せかれ

【散るは浮き】
清元お葉作曲
名人清元お葉によって作曲された小唄で、現在行われている江戸小唄の最初の記念すべき作品である。

【せかれ】
明治中期に作られた上方小唄調の江戸小唄である。

向島名所 若草ライブ

文字通り向島の名所を唄っている
竹屋の渡し=山野堀りと向島三囲神社を結んでいた。「竹屋」の名は付近にあった茶屋の名に由来するという。昭和八年の言問橋架橋前後に廃止された。

ビクター名流

三越劇場にて開催されました。
   曲      唄      糸
逢い見ての   とよ喜裕美  とよ裕美也
引けは九つ

露は尾花

男性を露、女性をすすきにたとえて、二人の情事を唄ったもので、露とすすきの恋話が、嘘かほんとか、それとなく気をひいてみると、露(男)はよれを肯定するがすすき(女)は知らぬと口では云うが、その頬(穂)に思いの色がぽっと出るので隠しきれなくなってしまったというのが、唄の裏で、この小唄はそうした事の詮索より、秋の山野に、露を含んでなびく美しいすすきを唄い、また晩秋、すすきが山の尾根に房々とした尾花をつけて、咲き揃っている見事な光景を唄ったものと考えればそれで十分風情がある(江戸小唄 木村菊太郎著)

からかさ

明治期の俗曲「からかさ」から摂った江戸小唄である。「千鳥掛(ちどりがけ)」というのは、傘の轆轤(ろくろ)に集まる骨を斜めに左右からかがった糸を言うので、唄の意味は傘の骨がばらばらになり、紙は破れても二人の仲は千鳥掛に結ばれて離れる事はないという意味である(小唄鑑賞 木村菊太郎著より)

東京小唄・清元・三味線教室

日本の下町、谷中・浅草で粋な三味線音楽をお稽古してみませんか?
初心者の方でも基礎からわかりやすく指導いたします。
小唄、清元を通し、日本の歴史、着物、歌舞伎、お茶、お花など、さらに日本の文化全般について学ぶことになるでしょう。
もっと日本のこと、体験してみませんか?

神田祭

清元志寿朗師主催の第23回「清朗会」(平成28年3月27日開催 於:三越劇場)より。江戸っ子の粋な気質を唄い上げた舞踊曲「神田祭」。出演は清元延ゆき朗並びに延ゆき朗社中(賛助出演:清元志寿雄太夫)。

三社祭奉納くみ踊り

この動画は平成28年5月15日に浅草神社神楽殿で行われた浅草芸妓(あやめ組)による奉納舞踊の様子です。

この先に

小唄のみならず最近は清元に進境著しい春日とよ裕美也様に糸をやって頂きました。

春風がそよそよと

春日とよ裕美羽様に「春風がそよそよと」を唄って頂きました。
しっとりとした唄い方はさすがですね。

猫じゃ猫じゃ

春日とよ裕美安様に「猫じゃ猫じゃ」を唄って頂きました。
可愛く愛敬のある唄声に癒されました。

一日逢わねば(三千歳)

河竹黙阿弥作「天衣紛上野初花」の片岡直次郎と吉原大口屋の遊女三千歳との入谷の寮での濡場を唄った清元の名曲「忍逢春雪解」(清元お葉作)に材をとって小唄にしたもの。

吉三節分

河竹黙阿弥作「三人吉三廓初買」大川端庚申塚の場。行きあった夜鷹を殺して百両を強奪したお嬢吉三のふてぶてしいが、「厄払い」と呼ばれる七五調の名調子

梅は咲いたか

江戸時代の端唄。陽気な歌詞と賑やかな曲節で、分かり易く大衆性に富んだ唄なので、無数の替歌がある。

初出見よとて

初出とは火消しの出初式のことで、出をかけてとは、鐘を鳴らして組の物を集めることです。

お江戸日本橋

天保年間以来の唄ですが「お江戸日本橋」と云う曲名で知られるようになったのは明治の終わり頃で、三越デパートに所縁のある唄です。