葛飾北斎(画狂老人卍)お墓参り

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こんにちは

『神奈川冲波裏』や『凱風快晴』など富士山の浮世絵で世界的に知られる葛飾北斎が意外と近くで眠ってましたので、お盆ということで、小唄三味線の稽古の帰りがけに聖教寺さんにお墓参りさせていただきましたので、レポさせていただきます。

聖教寺
銀座線「稲荷町」から徒歩5分

北斎は宝暦10年(1760年)9月23日、江戸本所割下水(墨田区亀沢)生まれ。
19歳のときに錦絵で有名な勝川春章に弟子入りし本格的に絵画の修行を始めました。
35歳で独立、独自の画境を切り拓いていきます。
39歳のときに北斎辰政を名乗り、肉筆画の「柳下傘持美人」図で世間に知られるようになります。
還暦を過ぎてから「冨獄三十六景」などの浮世絵の代表作を次々と描きました。
75歳からは画狂老人卍を名乗り、古典を題材にした絵を多く描くようになりました。
画号は勝川春朗から始まり画狂老人卍まで改号すること30回、転居すること93回という奇行に富んだ人でした。
最後は江戸浅草聖天町遍照院境内にある仮宅で、嘉永2年(1849年)4月18日暁七ッ時(午前4時頃)、三女のお栄(葛飾應為、北斎が「お〜い」と呼んでいたのでこの号になりました。絵も非常に上手で「吉原格子先の図」は傑作です)に看取られて90歳で亡くなりました。

北斎の最後の様子が弟子の露木為一によって明らかにされています。
「天があと10年、いやあと5年、生かしてくれるなら、まさに本物の絵師になり得たであろう」と最後まで執念を燃やしたそうです。まさに画狂老人ですね!世界の北斎をもってしても、芸は最後まで未完ということでしょうか。
雄大な富士に黒雲とともに龍が昇天する「富士越龍」が絶筆と言われています。最後は自分が龍になって大好きな富士山を越えていったのでしょう。

葬儀は4月19日朝四ッ時(午前10時)から菩提寺の聖教寺で営まれました。
墓石正面には「画狂老人卍墓」と大書し、右側面に時世の句が刻まれています。

ひと魂でゆく気散じや夏の原
(ひとだまになって夏の草原をのびのびと飛んで行こう)