谷中さくら通り

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こんにちは

日暮里駅南口からお稽古に通う『さくら通り』ですが、お盆も近いということで通り沿いを散策してみましたので、レポさせていただきます。

・天王寺
正式名称は『護国山尊重院天王寺』
鎌倉時代後期、土豪、関小次郎長耀が当地に立ち寄った日蓮聖人に帰依し草庵を作り、弟子の日源がここに聖人自刻の像を祀って長耀山感応寺と称したのが開創と伝えられている。寛永8年(1641年)、徳川家光、春日局の外護を受け、約3万坪の土地を拝領し、将軍家の祈祷所となる。
元禄13年(1700年)、徳川幕府公認の富突(富くじ)が興行され、目黒不動、湯島天神とともに「江戸の三富」として大いに賑わった。
元禄3年(1690年)鋳造の釈迦如来座像は、通称、丈六仏(座像なので高さは半分の8尺、2.4m)と言われ、江戸名所図会や新選東京名所図会に記載があり、江戸、東京のシンボル的な存在として知られていました。
谷中霊園は、明治政府が寺域の一部を没収して開設したものです。
(紅葉坂を上がった左側)

・天王寺五重塔跡
正保元年(1644年)建立。火事により寛政3年(1791年)再建。
明治25年(1892年)、幸田露伴の小説『五重塔』の題材になったことから一躍有名になり東京の名所として谷中霊園のシンボルになっていたが、昭和32年7月6日、心中による放火により心柱を残して焼け落ちた。洋裁師が使う金の指抜きが見つかり都内の洋裁店に勤める48歳の男性と21歳の女性の不倫清算のための焼身自殺と判明。
(交番の隣)

・長谷川一夫の墓
1908-1984、俳優、本名、林長二郎。
戦前から戦後にかけて活躍した二枚目の時代劇スター。歌舞伎から映画界に転身し300本以上の作品に出演。晩年は舞台に専念。俳優初の国民栄誉賞を受賞。
(交番の正面、甲9号2側)

・高橋お伝の墓
1850-1879、夫を毒殺したあと、浅草蔵前の旅館丸竹で古着屋吉蔵を殺害し「稀代の毒婦」と言われた。貧困と差別のうちに男に利用された気の毒な女性という見方もある。
明治12年1月31日に市ヶ谷の監獄で最後の斬首刑に処せられた人物と言われている。
歌舞伎や映画などの題材になったからでしょうか、なぜか、お参りすると三味線が上手くなる、という都市伝説がある。
墓石には辞世の句が刻まれている。
「しばらくは望みなき世にあらむより渡しいそぐや三津の河守」
(公衆トイレの隣、碑甲2号1側)

谷中墓地には、その他にも大勢の著名人が眠っていますので、興味のある方は、お参りされてください。
お墓の場所は、霊園管理所でもらえる谷中霊園案内図に載っています。
・主な著名人
天津乙女(宝塚歌劇団月組組長)
上田敏(文学者)
圓地文子(小説家)
柏戸剛(第47代横綱)
鏑木清方(日本画家)
川上音二郎(新派俳優)
澤田正二郎(新国劇創設者)
獅子文六(小説家、劇作家)
澁澤栄一(実業家)
津田真通(法学者)
出羽海秀光(第31代横綱)
中村仲蔵(歌舞伎役者)
ニコライ・カサートキン(宣教師、ニコライ堂創建者)
鳩山一郎(政治家)
花柳壽輔(花柳流創始者)
宮城道雄(箏曲家)
森繁久彌(俳優)
横山大観(日本画家)