お伊勢まいり

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こんにちは

名取式も無事終わり一区切りついたので、春日会の発展と来年の喜裕美会の成功を祈願しに、台風が近づくなか伊勢神宮の外宮、内宮に参拝してきました。

伊勢神宮は、正式には『神宮』といいます。内宮と外宮を中心に125の宮社があります。外宮から内宮の順にお参りするのが昔からのならわしです。内宮は皇室の御祖先であり、太陽にもたとえられる天照大御神さまをおまつりし、全国より崇敬を集めています。外宮は天照大御神さまのお食事を司り、産業の守り神である豊受大御神さまをおまつりしています。内宮は約2000年、外宮は約1500年の歴史があります。
(伊勢神宮HPより)

ちなみに、伊勢神宮には、おみくじがありません。
伊勢神宮に参拝に訪れた日は誰もが吉日とされています。また、神社の参拝は平穏無事に過ごせていることに感謝することであるということからおみくじがないと言われています。
神聖な大気のなか、雨に洗い流されて身も心も新たな気持ちになりました。

お伊勢まいり

お伊勢まいりに
石部の茶屋であったとさ
可愛い長右衛門さんの岩田帯しめたとさ
えっささのえっささのえっささのさ

(解説は師匠のHP歌詞集、又は小唄選曲集第一集8頁を参照してください)

インスタグラム

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はじめまして
フレブルのコウタです。

最近、無料の共有スマホアプリ、写真に特化したSNS『インスタグラム』が、若い女の子の間で大流行っているそうですね…

・フェイスブック、ツィッターは
いつでも
どこでも
誰とでも
なんで気疲れするけど
・インスタグラムは
今だけ
ここだけ
私だけ
なんで気分がいいらしいですよ。

ウケる写真は「自分の世界観をさりげなく表現する」ことが大事だって、人気インスタグラマーが言ってたけど、インスタって、なんか『小唄』と似てませんか?

小唄入門

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こんにちは

小唄入門(昭和30年1月発行、本山萩舟、杉原残華著)という小唄全盛期に出版された本を読んでみましたので、紹介させていただきます。

小唄とは、手っ取り早く言えば、「話し上手に聴き上手の境地」だということである。
話術の巧みさと同じようなもので、話している当人もいい気分なら聴き手に回った人も思わず引き込まれるという気合いである。
従って、気取って唄い出す必要もなければ、ことさら紋付き袴の心構えといったものも考えなければいけないということもない。
淡々として唄い出し淡々と唄いおさめて、しかも心がしっとりと濡れる境地に至れば申し分ないのである。
要するに、唄ってから肩がこるとか、息苦しくなるというような無理をせずに、浴衣を引っかけてお湯屋へ行くような心安さをもって親しんで頂きたいと思うのである。

「小唄は三味線をあしらいに使って唄い、端唄は三味線にのせて唄う、小唄は唄い込まれる唄の文句の面白さを味わい、端唄は節回しと声づかいのよさに耳を傾ける。端唄は三味線にのせながら三味線にひきずられぬ自由さを持って唄い、どこまでも声を聞かせ、節を聞かせるものだが、小唄はあくまで文句と気分を味わせるものでなければならない」
これは、平山盧江氏の主張であるが、言い得てまことに妙である。

先日、初めて第49回ライオンズ小唄会に出席させていただき、ベテランの諸先輩の小唄を拝聴して、著者の話をなるほどと納得した次第です。
特に、トリを取ったライオンズ小唄会会長の小唄は、師匠からも一度聴いておいた方がいいと言われましたが、声の張り、艶、間、音程、節回し、小唄の文句と気分に引き込まれてしまいました。
「気分よく」は、師匠もよく口にされますが、小唄って皆をいい気分にさせる『癒し系の和芸』なんですね!

江戸城散策

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こんにちは

丸ビルに立ち寄った後、好天は誘われて江戸城を散策してきましたので、レポさせていただきます。

長禄元年(1457年)に太田道灌が、この地に平山城を築いた後、北条氏の支城の時代を経て、天正18年(1590年)に徳川家康が入城し、以後、徳川氏15代の居城であった。

数ある名跡の中で「なぜ、江戸城天守閣は再建されなかったのか」という『富士見櫓』にまつわるのエピソードを紹介させていただきます。

富士見櫓は江戸城旧本丸の南東隅に位置し、品川の海や富士山が一望できました。現存の三重櫓は、万治2年(1659年)の再建で、江戸城本丸の貴重な遺構です。

明歴3年(1657年)の大火で天守閣が消失し、当時の第4代将軍、徳川家綱は天守閣を再建しようとしましたが、叔父の保科正之の「戦国の世は終わったので、天守閣よりも大火のときに江戸庶民が避難できる両国橋を造りましょう(当時、隅田川の大川には防備の面から一本も橋がなかった)」という進言により、富士見櫓が天守閣に代用されました。
その後、その時の意志を継いで、天守閣は建てらていません。

保科正之(1611-1673)
第3代将軍、徳川家光の異母兄弟で、家光と家綱を補佐し、幕閣に重きをなした。日本史上屈指の名君と言われている。
第2代将軍徳川秀忠が、妻のお江が恐妻で側室が持てなかったので、女中のお静に生ませた子。保科家へ養子に出されたが、謹直で有能であったため、徳川家に呼び戻され、幕府より松平姓を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず、生涯、保科姓で通した。

Mの記憶

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こんにちは

久しぶりに丸ビル(丸の内ビルディング、2002年)に行ったらエントランスに『Mの記憶』という洒落たオブジェがあったので、紹介させていただきます。

私の『Mの記憶』と言えば、1階にあった竹葉亭のまぐちゃ(まぐろ茶漬け)です。本当に美味しくて、よく食べに来たのを懐かしく思い出しました。

旧丸ビル(丸ノ内ビルヂング、1923年)に基礎として用いられた松杭が驚くほどの鮮度で回収され、その中の1本を選び、旧丸ビルがたどった年代を切り刻み、そのまま水平に床に埋めた作品です。
丸ノ内は昔は海だったので地盤が弱いため、基礎に12〜15メートルの松杭を5400本使ったそうです。
そしてもう1本、今度はブロンズに鋳抜き、未来への年代を切り刻んで、床下の作品と対応させるように屹立させた、時間と記憶をテーマにした土屋公雄氏の作品です。

兼六園

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こんにちは

旅の終わりに日本三名園の一つ、金沢の『兼六園』を訪れました。

お隣の金沢城公園も金沢大学の移転後、河北門、五十間長屋などの復元工事が完了し、きれいに整備されていました。

雁が夕空に列をなして飛んでいく様をかたどった「雁行橋」や、せせらぎを琴の音に見立て、琴橋の上に置かれた「ことじ灯籠」の周りの木々も少しずつ色づき始め、秋の気配を感じさます。
初秋の兼六園もいいですが、桜、梅、紅葉、雪の兼六園も良いそうですので、次は違うシーズンに訪れてみたいと思います。

風の盆

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こんにちは

飛騨高山を散策したあと世界遺産の白川郷に立ち寄り、師匠の十八番『風の盆恋歌』の舞台、坂道と水音の街、富山市八尾に「越中おわら風の盆」を見に来ています。

この歌の原作が、直木賞作家、高橋治(1929-2015、千葉県生まれ)の同名の長編小説『風の盆恋歌』です。
300年以上の歴史をもつ北陸の風物「風の盆」を舞台に、大人の恋の儚さを比類なき美しさで描いた名作です。歌を作詞した、なかにし礼が小説のストーリーを感動的に昇華しています。
この時期は、いつも八尾を訪れていたという著者が描きたかったのは、恋愛小説という形をとってはいても、実は「風の盆」そのものだったそうです。

八尾は井田川に沿った細長い坂の町である。
清洌な水が流れるこの地に今年も「風の盆」の季節がやってきた。
「風の盆」は、風の神送りと祖霊供養の盆踊りとが習合した民族芸能である。
秋風の立つ9月1日から3日間、『越中おわら節』が唄われ躍られる。

唄の町だよ
八尾の町は
唄で糸とる
(オワラ)
桑も摘む

三味線の
一の糸から
二の糸かけて
三の糸から
(オワラ)
唄が出る

唄で濡れたか
夜露を着たか
びんがほつれた
(オワラ)
風の盆

恋のつぶてか
窓打つあられ
開けりゃ身にしむ
(オワラ)
夜半の風

もしや来るかと
窓押しあけて
見れば
(オワラ)
雪ばかり

夕暮れとともに、万灯と呼ばれる、ぼんぼりに灯がともされると、ゆったりとした低い糸でリズムを刻む苦みばしった三味の音、それに乗せて胡弓の甘く悲しい音色が静かに流れてくる。
三味線が唄い、胡弓は唄が掬いきれなかった情感を訴える。
そして、どこからともなく現れる町流しの踊り手たち。洗練された身のこなし、そして、とりわけ美しい指先。

お囃子に合わせて賑やかに発散する踊りとは対象的に、内に向かって静かに陶酔していく踊りである「おわら風の盆」
静かに流れる時間に身を置きながら、この風景が永久(とわ)に続いてほしいと願っている自分がそこにいました。

風の盆恋歌

なかにし礼詩
三木たかし曲
石川さゆり歌

蚊帳の中から 花を見る
咲いてはかない酔芙蓉
若い日の美しい
私を抱いてほしかった
しのび逢う恋 風の盆

私あなたの腕の中
跳ねてはじけて鮎になる
この命 ほしいなら
いつでも死んでみせますわ
夜に泣いてる 三味の音

生きて添えない二人なら
旅に出ましょう 幻の
遅すぎた恋だから
命をかけてくつがえす
おわら恋歌道連れに

(テレサ・テンの数々のヒット曲を残した、今は亡き三木たかしが、日本の情緒ある風景、女性を描いた日本の歌曲を作りたいとして作曲しました。聴きたい方は師匠にリクエストお願いいたします)

長良川鵜飼

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こんにちは

ゆかた浚いも無事に終わり一息ついたので、江戸時代の町並みがそのまま残り「座頭市」の撮影にも使われた中山道にある木曽の宿場町『妻籠宿』に立ち寄ったあと、岐阜の長良川で鵜飼を見て来ましたので、レポされていただきます。

長良川鵜飼は、長良川で毎年5月11日から10月15日まで、中秋の名月の日以外は毎日行われます。
1300年の歴史があり、起源は漁としての鵜飼だが、現在は古典漁法を今に伝える観光としての鵜飼です。10キロほど上流の宮内庁の御料場で行われる8回の鵜飼は「御料鵜飼」と呼ばれ、捕れた鮎は皇居や明治神宮、伊勢神宮へ奉納されます。
漁法は舟主にかがり火を付けた鵜舟に鵜匠が乗り、10〜12羽の鵜をさばき、手繰り、かがり火で驚かせた鮎を鵜が潜って捕ります。
鵜匠は船縁を叩いてホウホウとかけ声をかけながら、鵜匠と鵜、鵜舟が一体となって鮎を追い込んでいきます。ホウホウのかけ声は鵜を落ち着かせる効果があります。
鵜匠は常日頃から鵜と一緒に生活しているため、鵜匠と鵜は呼吸の合った動きを見せ、見事に鮎を捕らえていきます。鵜の捕った鮎は、鵜匠により吐き篭に吐かせられます。
最後に行われる6艘の総がらみによる巻き狩り漁法は、特に幻想的です。

風折烏帽子

明治39年
山田顕義詩
清元お葉曲

風折烏帽子 腰簑つけて
清き流れの長良川
流れ尽きせぬ幾千代かけて
君に捧げん鮎の魚
船端叩いて ほーほーほっ

(解説は、師匠のHP歌詞集を参照してください)

小唄の宝典

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こんにちは

師匠の小唄選曲集やブログの歌詞集の解説でも参考にされている『小唄の宝典』3部作と言われる小唄鑑賞、江戸小唄、芝居小唄を紹介させていただきます。
各巻700頁前後ある大書なので内容が豊富で、たいへん勉強になる本です。

小唄鑑賞
木村菊太郎著
尾上梅幸題字
江戸の流れを汲む明治初期、そして大正から昭和に至るまでに作られた小唄397曲を高い見識をもって整理しています。この一冊による小唄知識の増大は、そのまま貴方の小唄への造詣をより深いものに育て大きな影響を及ぼすこと必至。

江戸小唄
木村菊太郎著
中村歌右衛門題字
江戸時代の小唄を主に、明治以降の分も加えた437曲、季節、出典、解釈と鑑賞、芝居との関わり、註釈と多角的な考察による小唄の徹底的究明は、さすがに親切な記述と賞賛されています。いわば小唄の原典を平易に解説した宝典なのです。

芝居小唄
木村菊太郎著
久保田万太郎題字
歌舞伎や新派、または役者に因む小唄375曲を選び出し、歳時記風に分類配列して、小唄の成り立ち、芝居の梗概、歌詞の解説、註釈、唄い方まで懇切丁寧に書いてあります。小唄の醍醐味ばかりでなく芝居の楽しさが併せて味わえる評判の好著。

木村菊太郎
1912-2006、桐生市生まれ。演劇評論家として雑誌や新聞に劇評を執筆した後、小唄に専念。小唄の発展に多大な貢献をした。平成18年、93歳にて他界。

(演劇出版社の解説より)

あげまん

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こんにちは

『あげまん』(1990年、伊丹十三脚本監督作品)で主演の宮本信子が演じる「弾き唄い」に憧れたのがキッカケで、姉弟子が小唄三味線を始めたと聞き、DVDを借りて観てみましたので、紹介させていただきます。

『あげまん』とは、「あげ」は上、「まん」は運、つまり上昇運を意味する言葉です。
『あげまん』の女、ナヨコが芸者の世界を描く、純愛物語です。

ナヨコは捨て子である。7月4日に稲荷神社に捨てられていたので、ナヨコと名付けられた。老夫婦に育てられたナヨコは、中学に上がると置屋に預けられ芸者、七四吉になる。
まさにバブル全盛期。金、色、出世に溺れる男たち。
男に利用されながらも好きな男のために生きる女、ナヨコは情が深く、よく尽くし、男はどんどん出世していく。

男に『ツキ 』をもたらす女、ナヨコを演じる宮本信子がいい演技をしてます。
特に、小唄ぶり『夜桜や』は、いい味を出してます。
確かに、これを観たら、粋に「弾き唄い」してみたくなりますね!姉さん

夜桜や

夜桜や
浮かれ烏がまいまいと
花の木影に誰やらが居るわいな
とぼけしゃんすな
芽吹き柳が風にもまれて
ふうわりふうわりと
オオサ そうじゃいな
そうじゃわいな

(文化年間の吉原の夜桜を唄った古い上方小唄。浮かれ烏とは、吉原を歩く冷やかし客。「花の木影〜そうじゃわいな」は、遊女のやりとりを唄ったもの(木村菊太郎著『江戸小唄』参照)解説は師匠の小唄選曲集第二集22頁を参照してください)

ゆかた会

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こんにちは

夏の小唄が多く唄われる日本小唄連盟主宰の第二十三回慈善演奏会(ゆかた会)を、喜裕美会のゆかた浚いに先駆けて鑑賞させていただきました。

日本小唄連盟は、小唄の流派の結束と小唄の持つ魅力を伝え、次の世代へ繋げることを目標に昭和31年に発足し、伝統芸能である小唄の昴揚と発展を図り、以てわが国の文化の進展に寄与することを目的としています。
(日本小唄連盟HPより)

春日慈善会は毎年11月に開催され、たいへん聴き応えのある会ですが、今回の慈善演奏会は、全82曲、5時間にわたって、いろいろな流派の小唄を堪能することができ、小唄の懐の深さを感じることができました。

夏の定番『川風』など、春日会でよく耳にする小唄も、節回しがかなり異なり、流派によってずいぶん違うものだと思いました。
また、『鶴次郎』と同じ替手が上調子の曲である『浮名も舟』『隅田の名どころ』『蚊やり香』『すだれごし』などを聴くことができ、たいへん勉強になりました。
上調子は、4の勘所辺りにギターでいうカポのような『かせ』を装着して糸を短くし、本手の完全4度上に調弦し、オクターブ違いで弾くことにより音に広がりを持たせたり、本手と違うリズムを加えて旋律に色を添えます。本手との『間』が一番大事で、音を色として捉える感覚で本手を生かして音の色彩を創り出していく技術が要求されます。爪弾きではなく、爪楊枝や手に隠れてしまうほど小さな小撥で弾きます。

日本人が忘れかけている日本の伝統、文化、歴史、季節感などを大上段に構えずに幅広く学ぶことができる、小唄三味線の楽しさを、今後も体感していきたいと思います。

川風

明治中期の作

川風に
つい誘われて涼み舟
文句もいつか口舌して
粋な簾の風の音に
洩れて聞こゆる忍び駒
いきな世界に照る月の
なかを流るる隅田川

(解説は師匠の小唄選曲集第一集10頁を参照してください)

花巻

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こんにちは

日本橋近辺を散策したあと、日本橋室町にある、そば屋の老舗『砂場』(明治2年創業)に入りました。
天ざる発祥の店ということですが、お品書きを見ると『花まき』とあります。小唄を聴きはじめてから気になっていたので、熱いうどんでいただきました。

『花巻』
かけに焼き海苔をのせ、薬味はおろし山葵で、葱は入れずに、海苔の香りと麺の味を楽しむものである(蕎麦の辞典より)
浅草海苔は磯の花にたとえられることから海苔を花に見立てた「花撒き」が転じて『花巻』になったようです。
江戸末期の百科辞典『守貞漫稿』にも「花巻 浅草海苔をあぶりて揉み加ふ」とあり、調理の簡単さもあって、江戸時代から店でも屋台でも定番の種物でした。

さて、前置きが長くなりましたが、『花巻』と言えば『うどんやさん』
歌謡曲調の節回しで小唄情緒の世界を描き、対する三味線は、それに溺れることなく手数の少ない選び抜かれた音色で応えています。
まさに『花巻』海苔の香りとコシのあるうどんのように二つの才能が旨く調和して、いい味を出しています。
最初から最後まで「おしゃべり」で、一幕物の展開を見せているところが、この小唄の魅力であり、難しさでもあります。
女性なら一度は唄ってみたくなる小唄ではないでしょうか。
春日とよ五千代師匠(1919-98、浅草生まれ)が、鰹節でダシをとった汁(つゆ)のようなコクがあるけどさっぱりした美声で唄い上げている『うどんやさん』が絶品ですので、ぜひ一度、味わってみてください。
(解説は師匠の小唄選曲集第六集3頁を参照してください)

うどんやさん

昭和41年
山上路夫詩
四世清元梅吉曲

うどんやさん
あつい花巻 一つ作って
おお寒む寒む
いいえ 家の人とやりあって
あたし一人で飛び出してきたの
ほんとに あの人 いけない人よ
大嫌い
だけどね
やさしいとこもある人よ
あたし本当は 心の底から惚れてるの
あら ごめんなさい おいくら

(山上路夫:1936-、作詞家、昭和歌謡を代表するヒットメーカー。『世界は二人のために』『夜明けのスキャット』『翼をください』『瀬戸の花嫁』『学生街の喫茶店』『岬めぐり』などヒット曲多数)
(四世清元梅吉:1932-、清元節三味線方、作曲家。重厚かつ華麗な撥さばき、解釈に優れた演奏で、早くから天才の名をほしいままにしてきた。人間国宝)

お江戸日本橋

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こんにちは

小唄の理解を深めるために、『日本橋』近辺を散策してきましたので、レポさせていただきます。

『日本橋』
慶長8年(1603年)に初代の木造橋が架けられ、翌年五街道の起点となりました。
明治44年(1911年)完成の現在の橋は、火事で焼けたりして20代目です。

日本橋ともなりますと三越(越後屋)はじめ老舗が沢山あり、見所たっぷりですが、今人気のアートアクアリュームの長〜い行列を尻目に、銀座線「三越前」地下コンコースにある壁面、『輝代勝覧』絵巻を眺めてきましたので、紹介させていただきます。

文化2年(1805年)の江戸、日本橋から今川橋までの大通り(現在の中央通り)の西側(三越側)を俯瞰描写した17メートルにわたる作品です。

とざい東西、ここにくり広げたる絵巻は大江戸八百八町のなかでも、とりわけ名高い日本橋
時は、11代徳川家斎の世、88軒の問屋の前の通りを繁華に行き交う人を数えてみれば、その数1671人、うち女性は200人、それに犬20匹、馬13頭、牛4頭、鷹2羽、猿1匹、(猫0匹、のら猫は少なかったようです)

「輝ける御代の勝れたる大江戸の景観」をとくとご覧あれ
作者不明。原画はベルリン国立アジア美術館所蔵。

7月23日に日本橋のたもと、「花の広場」に新しく観光案内所もでき、近頃の再開発で街が生まれ変わりましたので、興味のある方は一度ゆっくり歩いてみてはいかがでしょうか。

お江戸日本橋

作詞・作曲者不詳

お江戸日本橋七つ立ち 初上り
行列揃えてアレワイサノサ
こちゃ 高輪夜明けて提灯消す
こちゃえ こちゃえ
(天保時代(1831-45年)に流行した俗謡『はねだ節』が、やがて「コチャエ、コチャエ」の囃子を伴った『コチャエ節』となり、さらに東海道五十三次の替え歌『お江戸日本橋』が誕生しました。解説は師匠の小唄選曲集第九集3頁を参照してください)

残菊物語

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こんにちは

小唄の理解を深めるために、溝口健二(1898-1956、湯島生まれ。女性映画の巨匠と呼ばれ、一貫して虐げられた女性の姿を冷徹なリアリズムで描き、国際的に高い評価を受けた。代表作に『雨月物語』『西鶴一代女』)監督の映画史上に残る名作と言われている、村松梢風原作の『残菊物語』(昭和14年)を2015年カンヌ国際映画祭クラシック部門で上映されたデジタル修復版で観てみましたので、紹介させていただきます。

舞台は明治時代初期の東京。人気が出て天狗になっていたニ代目・尾上菊之助は、歌舞伎界の名家、五代目・尾上菊五郎の養子として甘やかされて育ち、周囲からもちやほやされていたため、自らの芸の未熟さに気づかずにいた。
そんなとき、義弟の若い乳母、お徳に自分の芸を批判され、自分の名声が義父、菊五郎の威光によるものと気づかされる。
そんなお徳に、いつしか好意を抱くようになる菊之助。しかし、二人の噂を耳にした母親は、乳母と夫婦になることは音羽屋の恥と、お徳に暇を出してしまう。それに憤慨した菊之助は家を飛び出し、大阪で舞台に立つようになるが、目の肥えた大阪の観客に受け入れられず、お徳と二人、旅回りに出ることに。それによって菊之助の芸は次第に磨かれていく。数年後、お徳は菊之助と別れるのと引き換えに歌舞伎の世界に戻れるように頼み込み、菊五郎もそれを受け入れる。
初日の舞台には、袖から菊之助の姿を満足そうに見つめるお徳の姿がありました。

哀しくも慈愛と情感あふれる姿を、演技の流れを断ち切らない「長回し」という手法で撮影することによって、芸に精進する役者を一途に支え続ける女を描きあげています。
戦前の歌舞伎の舞台や浪花の夏の風物詩、船乗り込みなど興味深い場面が随所に出てきますので、歌舞伎ファンにはお薦めの映画です。
You_Tubeにもアップされてますので、興味のある方はご覧ください。

ひとすじに(残菊物語)

河上渓介詩
春日とよ曲

一筋に
思うお徳のまごころに
引かれて我も名門を
すてて浪花の侘住居
残んの菊も色あせて

葛飾北斎(画狂老人卍)お墓参り

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こんにちは

『神奈川冲波裏』や『凱風快晴』など富士山の浮世絵で世界的に知られる葛飾北斎が意外と近くで眠ってましたので、お盆ということで、小唄三味線の稽古の帰りがけに聖教寺さんにお墓参りさせていただきましたので、レポさせていただきます。

聖教寺
銀座線「稲荷町」から徒歩5分

北斎は宝暦10年(1760年)9月23日、江戸本所割下水(墨田区亀沢)生まれ。
19歳のときに錦絵で有名な勝川春章に弟子入りし本格的に絵画の修行を始めました。
35歳で独立、独自の画境を切り拓いていきます。
39歳のときに北斎辰政を名乗り、肉筆画の「柳下傘持美人」図で世間に知られるようになります。
還暦を過ぎてから「冨獄三十六景」などの浮世絵の代表作を次々と描きました。
75歳からは画狂老人卍を名乗り、古典を題材にした絵を多く描くようになりました。
画号は勝川春朗から始まり画狂老人卍まで改号すること30回、転居すること93回という奇行に富んだ人でした。
最後は江戸浅草聖天町遍照院境内にある仮宅で、嘉永2年(1849年)4月18日暁七ッ時(午前4時頃)、三女のお栄(葛飾應為、北斎が「お〜い」と呼んでいたのでこの号になりました。絵も非常に上手で「吉原格子先の図」は傑作です)に看取られて90歳で亡くなりました。

北斎の最後の様子が弟子の露木為一によって明らかにされています。
「天があと10年、いやあと5年、生かしてくれるなら、まさに本物の絵師になり得たであろう」と最後まで執念を燃やしたそうです。まさに画狂老人ですね!世界の北斎をもってしても、芸は最後まで未完ということでしょうか。
雄大な富士に黒雲とともに龍が昇天する「富士越龍」が絶筆と言われています。最後は自分が龍になって大好きな富士山を越えていったのでしょう。

葬儀は4月19日朝四ッ時(午前10時)から菩提寺の聖教寺で営まれました。
墓石正面には「画狂老人卍墓」と大書し、右側面に時世の句が刻まれています。

ひと魂でゆく気散じや夏の原
(ひとだまになって夏の草原をのびのびと飛んで行こう)

谷中さくら通り

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こんにちは

日暮里駅南口からお稽古に通う『さくら通り』ですが、お盆も近いということで通り沿いを散策してみましたので、レポさせていただきます。

・天王寺
正式名称は『護国山尊重院天王寺』
鎌倉時代後期、土豪、関小次郎長耀が当地に立ち寄った日蓮聖人に帰依し草庵を作り、弟子の日源がここに聖人自刻の像を祀って長耀山感応寺と称したのが開創と伝えられている。寛永8年(1641年)、徳川家光、春日局の外護を受け、約3万坪の土地を拝領し、将軍家の祈祷所となる。
元禄13年(1700年)、徳川幕府公認の富突(富くじ)が興行され、目黒不動、湯島天神とともに「江戸の三富」として大いに賑わった。
元禄3年(1690年)鋳造の釈迦如来座像は、通称、丈六仏(座像なので高さは半分の8尺、2.4m)と言われ、江戸名所図会や新選東京名所図会に記載があり、江戸、東京のシンボル的な存在として知られていました。
谷中霊園は、明治政府が寺域の一部を没収して開設したものです。
(紅葉坂を上がった左側)

・天王寺五重塔跡
正保元年(1644年)建立。火事により寛政3年(1791年)再建。
明治25年(1892年)、幸田露伴の小説『五重塔』の題材になったことから一躍有名になり東京の名所として谷中霊園のシンボルになっていたが、昭和32年7月6日、心中による放火により心柱を残して焼け落ちた。洋裁師が使う金の指抜きが見つかり都内の洋裁店に勤める48歳の男性と21歳の女性の不倫清算のための焼身自殺と判明。
(交番の隣)

・長谷川一夫の墓
1908-1984、俳優、本名、林長二郎。
戦前から戦後にかけて活躍した二枚目の時代劇スター。歌舞伎から映画界に転身し300本以上の作品に出演。晩年は舞台に専念。俳優初の国民栄誉賞を受賞。
(交番の正面、甲9号2側)

・高橋お伝の墓
1850-1879、夫を毒殺したあと、浅草蔵前の旅館丸竹で古着屋吉蔵を殺害し「稀代の毒婦」と言われた。貧困と差別のうちに男に利用された気の毒な女性という見方もある。
明治12年1月31日に市ヶ谷の監獄で最後の斬首刑に処せられた人物と言われている。
歌舞伎や映画などの題材になったからでしょうか、なぜか、お参りすると三味線が上手くなる、という都市伝説がある。
墓石には辞世の句が刻まれている。
「しばらくは望みなき世にあらむより渡しいそぐや三津の河守」
(公衆トイレの隣、碑甲2号1側)

谷中墓地には、その他にも大勢の著名人が眠っていますので、興味のある方は、お参りされてください。
お墓の場所は、霊園管理所でもらえる谷中霊園案内図に載っています。
・主な著名人
天津乙女(宝塚歌劇団月組組長)
上田敏(文学者)
圓地文子(小説家)
柏戸剛(第47代横綱)
鏑木清方(日本画家)
川上音二郎(新派俳優)
澤田正二郎(新国劇創設者)
獅子文六(小説家、劇作家)
澁澤栄一(実業家)
津田真通(法学者)
出羽海秀光(第31代横綱)
中村仲蔵(歌舞伎役者)
ニコライ・カサートキン(宣教師、ニコライ堂創建者)
鳩山一郎(政治家)
花柳壽輔(花柳流創始者)
宮城道雄(箏曲家)
森繁久彌(俳優)
横山大観(日本画家)

春琴抄

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こんにちは

小唄の理解を深めるために、文豪・谷崎潤一郎(1886-1965、日本橋人形町生まれ。端麗な文章と巧みな語り口が特徴。代表作に『細雪』『痴人の愛』)の最高傑作、小説の神品とも言われる『春琴抄』を読んでみましたので、紹介させていただきます。

舞台は明治初頭の大阪道修町。
富裕な薬種商、鵙屋(もずや)の娘お琴(春琴)は、9歳のときに失明し琴三絃の稽古に励み糸竹の道を志す。
「手曳き」として身の回りの世話を任されたのが丁稚の佐助。
20歳で琴、三味線の師匠として独立した春琴だが、天性の美貌と気位の高さから恨みを買い、熱湯を浴びせられ顔に大火傷を負う。
包帯がとれ人に顔を見られることを嫌がる春琴。
喜悦を隠して尽くしぬく奉公人の佐助は、それを聞いて、春琴と同じ世界で生きていく決心をするのであります。

昔の稽古風景が描かれていますが、当時は譜面などはなく、芸は「口伝」でその「風」を繋いでいきました。三味線の稽古は、師匠が右手で膝を叩きながら口三味線で厳しく教え、まさに一期一会の真剣勝負でした。

名作だけに過去に6回映画化され、1935年には田中絹代、1954年には京マチ子、1961年には山本富士子、1976年には山口百恵などが、それぞれの個性で春琴を演じています。

春くれば(春琴抄)

河上渓介詩
春日とよ曲

春来れば
谷間の塒立ち出でて
ほのかに香る
梅が香を
偲びつ我は丸窓の
蔭に調べん
床し爪琴

浅草神社(三社様)

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こんにちは

小唄の理解を深めるために、『浅草神社』にお詣りしてきましたので、レポさせていただきます。

浅草寺本堂右隣にある神社で、通称、三社様。5月の例大祭、三社祭には3日間で毎年150万人の人出があります。
何で神社とお寺が一緒にあるのか、今では疑問に思いますが、平安時代に神仏習合という動きがあって、明治維新以前、1000年以上、それが普通のことでした。
明治時代の廃仏毀釈により大部分は切り離されてしまいましたが、全国にはまだ一緒にあるところも多いそうです。
浅草神社と浅草寺の関係ですが、まず、浅草寺が先に建立されました。
推古天皇36年(628年)、隅田川で漁師の桧前浜成・竹成兄弟の網に人の形をした像がかかりました。これを当時の地元の文化人、土師真中知に見せたところ、『聖観音菩薩』であることがわかり、その像が祀られたのが浅草寺です。
土師真中知の死後、子孫の夢枕に観世音菩薩が立たれ、「川から救い出して祀ってくれた桧前兄弟と土師真中知の3人を神として祀れ」と告げられたことから、この3人を祀ったのが浅草神社です。
それで、三社様と呼ばれるようにもなりました。

花の雲(助六)

川上渓介詩
宮川吟柳曲

花の雲
鐘は上野か浅草か
ゆかりの色の鉢巻も
江戸紫や伊達姿
堤八丁衣紋坂
大門くぐる助六に
煙管の雨が降るように
(解説は師匠のHPの歌詞集を参照してください)