梅雨明け

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雨上がり
蓮の不忍
三味の音

東京は早くも梅雨明け。6月中に梅雨が明けるのは初めてのことだそうです。
散歩がてらに、ちらほらと蓮の花が咲き始めた不忍池を眺めていると、気のせいか遠くの方から澄んだ三味の音が聞こえてきました。
見上げると上野精養軒。今年も半分終わり、浴衣浚いまで二ヶ月を切りました。
上野精養軒の舞台も不忍池の蓮のような大輪の花でもうすぐいっぱいになりますね!

あの日から

小野金次郎詞
中山小十郎曲
昭和三十五年

あの日から
噂も聞かず丸三月
出合頭は不忍の
蓮もすがれた片かげり
会えてどうなるものでなし
妾(あたし)もこんなに痩せました
義理の枷(かせ)

(客の一人を好きになってしまった下谷の若い芸妓を題材にした舞踊小唄。解説は師匠のHP歌詞集、または小唄選曲集第五集二頁を参照してください)

夏至

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夏の雨
凌ぎし軒に
三味の音

梅雨時の代表的な花である花菖蒲・紫陽花に代わり、6月後半から桔梗(キキョウ)が見頃を迎えています。秋の七草の一つなので秋の花のイメージがありますが、夏にかけて咲く花です。
凜然と鮮烈に花開いた五弁の花びらが、きりりとした佇まいで、すっと伸びた姿が清々しく感じられるからでしょうか、武士が好んだ花で家紋にも用いられています。明智光秀、坂本龍馬の家紋が桔梗紋なので反骨、悲劇のイメージがありますが、潔さを感じます。
花言葉:誠実、清楚、気品、変わらぬ愛

夏の雨

初代永井ひろ詞・曲

夏の雨
凌ぎし軒の白壁に
憎や噂をまざまざと
相合傘に書いた文字
見ればほころぶ片えくぼ

(永井ひろ1868-1936、下谷生まれ。「憎や」は心憎いの意。解説は師匠のHP歌詞集、または小唄選曲集第四集十五頁を参照してください)

梅雨入り

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濃紫陽花
からかさ越しに
三味の音

『からかさ』の合同稽古が始まりました。

『からかさ』とは、洋傘に対する和傘の総称で、中国舶来なので唐の文字を付けたという説や、からくり傘が縮められたという説があるようです。
最近は、日常生活ではまず見かけなくなり、千鳥掛のある『からかさ』は伝統工芸品として絶滅危惧種になりつつあります。

さて、『からかさ』は文句も替唄がたくさんあって楽しい小唄ですが、唄うのにはけっこう難しい曲のようです。
『小唄鑑賞』の著者・木村菊太郎が、次のように書いています。
「この小唄は、文句も単調で、曲も平凡なのであるが、この唄ぐらい唄い手の技量のわかる唄はない。下手に唄われたら、これ位、気の変わらぬ唄はないので、芸の確かな人は、どうしても平凡でなく、曲節の重ならぬように唄うとか工夫をせざるを得ない。例えば『骨はばらばら』と唄ったら、声の調子を低く三味線を逃げてゆっくり『紙ゃ破れても』と重く唄う。また後段の『千鳥掛け』は前段の『破れても』と同じ調子であるから、ここでも工夫で変えねばならぬといった訳である」(邦楽之友21号)

からかさ

〜二上がり

からかさの骨はばらばら
紙ゃ破れても
離れ離れまいぞえ
千鳥掛

妾(わたし)ゃ妾ゃ
野に咲く一重の桜
八重に八重に咲く気は
更にない

待てと待てというなら
五年はおろか
やなぎやなぎ新芽の枯れるまで

からかさの傘のしずくで
地が掘れるまで
好いた好いた同士の
立ち話

恋の恋の丸木橋
主となら渡る
落ちて落ちて流れりゃ
嬉しい二人連れ

三味線の糸は切れても
ふたりが仲は
切れて切れて切れない
あの深い仲

置炬燵 待てど来ぬ夜の
身のせつなさ辛さ
積もる積もる思いの
窓の雪

雪を雪をかむって
寝ている笹を
憎や憎や雀が
揺り起こす

からくりの ぱっと変わりし
お前の心
影で影で糸引く人がある

(文政(1818-30)の初めに流行し、ニ上がりの三味線で唄われた「よしこの節」をルーツとする明治期の俗曲からとった江戸小唄。千鳥掛とは、傘の柄の上に付けられ開閉に使われる仕掛け「轆轤(ろくろ)」の糸の細工。解説は師匠のHP歌詞集・動画コーナー、または小唄選曲集第ニ集五頁を参照してください)

松平不味公没後200年

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こんにちは

松平不味公がいなければ、小唄というものが、この世になかったかもしれないので、小唄を習う者にとって忘れてはいけない人の一人です。

今週5月28日は、江戸時代後期の大名茶人として名高い出雲松江藩七代目当主・松平治郷(はるさと)(不味公)(1751-1818)没後200年でした。

日本的美意識の結晶といわれる茶の湯。幼い頃から茶の湯に親しんだ不味公は、その大成者・千利休を尊敬し、茶の湯が国を治める助けになると説き、地場産業として欠かせない窯元を育成し、自ら命名した和菓子を作らせるなど茶の湯の町・松江のイメージを高めました。また、茶の湯の名品のコレクターであり、自分の所有物以外にも名品を調査してイラストまで添えた文書作りは、後の文化財保護の考えを先取りしたものと言われています。
ところで、現在唄われている江戸小唄の最初の記念すべき作品『散るは浮き』は、二世清元延寿太夫の娘、清元お葉(1840-1901)が16歳のときに、父が遺した手箱の中に、清元贔屓で清元に特別に比護を与えた不味公から頂いた不味公自筆の和歌の短冊を見つけ、これに加筆し、清元の早間拍子を三味線にとり入れて作曲したもので、この作品により、お葉は、当時流行の江戸端唄でもなく、新興の歌沢節でもない、全く新しい作曲手法で作られた、小唄の創始者として後の世に知られています。
明治中期、お葉は晩年『芸界の三名人』と謳われ、小唄の弟子に次のように口伝しています。
「小唄というものは、節をつけずふんわりと温和に唄い、間をうまく合わせて、文字通り唄に表情をあらわすものだ」(延寿芸談)

「散るは浮き散らぬは沈むもみじ葉の影は高尾の山川の水」
(江戸では大崎に下屋敷があり、庭園には千利休が造った茶室を移築した独楽庵はじめ11棟の茶室があり、茶の湯三昧の余生を送っていた不味公が、お茶事に『山川』という打物の菓子を考案し、品川の伊勢屋筑後という菓子屋に作らせた。この菓子は今でも「不味好み」といって残っているが、そのときに『山川』に寄せて作った和歌)

今月の若草ライブでは、喜裕美会を代表するお姉様たちゴールデントリオの『散るは浮き』が聴けるので楽しみです。

散るは浮き

松平不味詞
清元お葉加筆、曲

散るは浮き
散らぬは沈むもみじ葉の
影は高尾か山川の
水の流れに月の影

(解説は師匠のHP歌詞集、または小唄選曲集第一集十二頁を参照してください)

紫陽花

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薄あじさい
格子窓より
三味の音

沖縄に続いて、九州も昨年より11日早く梅雨入りし、今年も若草ライブの季節になりました。
まだ蕾の紫陽花たちも、次第に色づいてもうすぐ満開の花を咲かせますね!

向島散歩

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五月雨や
小唄で偲ぶ
向島

『向島名所』のお稽古のあと、小唄のイメージをふくらませるため、新緑に誘われて、隅田川東岸沿いの墨東地域(竹屋の渡し〜水神)を歩いてみました。

三社祭で賑わう浅草を抜けて、昭和8年に「竹屋の渡し」に代わり架橋された言問橋を渡り、三井家の守り神である三囲(みめぐり)神社で三越劇場の大盛会のお礼をしてから、長命寺で桜餅をいただきながら一服、向島百花園を散策したあと、歌川広重の浮世絵『隅田川水神の森』に描かれ、当時は隅田川に直結し筑波山が一望できた桜の名所、隅田川神社(水神さま)で若草ライブの成功を祈願しました。

言問団子をお土産に買って帰りました。
言問団子は、植木師の外山佐吉が江戸末期に創業。明治に入り、在原業平(平安時代の歌人で六歌仙の一人、桓武天皇の曾孫、825-880)の故事「都鳥」にちなんで「言問団子」と名付けられました。店が有名になるにつれ一帯の別称となり、言問橋や言問通りのルーツでもあります。

名にしおはば いざ言問はむ 都鳥 我が思ふ人はありやなしやと
(古今和歌集411)

平安時代、京の都から遠く東国を旅し隅田川までやってきた在原業平は、日が暮れるにつれて都がとても恋しくなる。
川にゆったり浮かんで魚をついばんでいる京では見かけない鳥(ユリカモメ)を見て、渡し守に名前を尋ねる。「あれは都鳥ですょ」と言うのを聞いて、「そういう名の鳥なら、ぜひ聞いてみたいものだ。都鳥よ、私の恋しいあの人は都で元気にしているかい」と詠むと、一行は涙を流した。
(伊勢物語「東下り」)

向島名所

磯部東籬詞
杉浦翠女曲

五月雨や竹屋の渡し上げ花火
燈籠流しに都鳥
言問団子に桜餅
ちょっと土産に買わしゃんせ
土手の桜の色もよく
虫の音すだく百花園
水神の逢う瀬嬉しき夕映えや
小唄で偲ぶ名所を
昔ながらの河水は
隅田八橋くぐり流るる

(解説は師匠のHP歌詞集、または小唄選曲集第六集十頁を参照してください)

お礼参り

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五月雨や
路地に聞こえる
三味の音

稽古に行く道すがらお参りしている、さくら通りの『お伝さんのお墓』
おかげさまで、三越劇場の大舞台では落ち着いて最後まで弾き通すことができました。

三越ネコまつり

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こんにちは

日本橋三越入口のライオンがネコに変わってました。
5/2(水)〜14(月)までネコまつりを開催するそうです。
ネコ好きの方は、5/4(金)4時〜東京着物ショー(日本橋三井ホール)で開催される師匠と福了子姐さんの小唄ぶりの応援のついでに覗いてみてください。

猫じゃ猫じゃ

猫じゃ猫じゃとおしゃいますが
猫が猫が足駄はいて
絞りの浴衣で来るものか
オッチョコチョイノチョイ
オッチョコチョイノチョイ

蝶々蜻蛉(とんぼ)やキリギリス
山で山でさいずるのが
松虫鈴虫くつわ虫
オッチョコチョイノチョイ
オッチョコチョイノチョイ

下戸じゃ下戸じゃとおしゃいますが
下戸が下戸が一升樽かついで
前後も知らずに酔うものか
オッチョコチョイノチョイ
オッチョコチョイノチョイ

(江戸時代から唄われてきた俗曲。解説は師匠のHP歌詞集、動画コーナーをご覧ください)

新派

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こんにちは

年初から続けてきた稽古も、一週間後の三越劇場での本番に向けて、春日会館での下浚いを残すのみとなりました。
栄芝会長の小唄に合わせて踊る福了子姐さんの小唄ぶりも楽しみですが、今回は、特別企画、泉鏡花作「婦系図」より新派劇『湯島境内』が非常に楽しみです。

そこで、新派の理解を深めるために『街角で見つけた新派』というタイトルの本を読んでみましたので、その中から「婦系図」のエピソードを紹介させていただきます。

梅の湯島に月影ふけて
結ぶみくしもさえかへる
(喜多村緑郎、日本橋生まれ、人間国宝、1871年-1961年)

初演以来、長年お蔦を演じてきた新派の女形、喜多村緑郎は緻密な演技で有名であった。
千秋楽の日、大道具さんが小道具のベンチの背に白い跡を発見する。白粉のついた喜多村の指の跡が、寸分違わず同じ場所に付いていたという。

残り3週間ですょ

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ひらひらと
桜舞い散る
さくら通り

花舞台まで泣いても笑っても残り3週間!

お伝さんのお墓には稽古に行く度にお参りしてますが…
やはり日々の練習が大事ですね!

お彼岸

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(三春滝桜 H29.4.22撮影)

稽古行く
冬の寒さも
彼岸まで

冬の寒さが厳しいほど、桜はきれいな花を咲かせるそうですょ

あと1ヶ月…
三越の舞台に満開の花が咲きますね!

梅は咲いたか

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こんにちは
 
『梅は咲いたか』のイメージをふくらませるために、春の陽気に誘われて、梅が満開の吉原周辺を散策してきましたので、レポさせていただきます。
 
吉原の開祖、庄司甚右衛門が眠る深川にある雲光院(徳川家康の側室、阿茶局の菩提寺)で墓参りをし、釜匠で深川めしを食べたあと、柳橋から隅田川を舟で上り両国橋をくぐり、浅草ニ天門で降りて隅田公園で梅を観賞し、山谷掘(当時は水路でしたが、現在は埋め立てられて公園になっています)を八丁(約900m)ほど歩き、お歯黒どぶ(吉原は幅9mの堀に囲まれ外界から隔絶されていた)の石垣沿いを通り、吉原遊郭のメインストリート仲之町通りを歩いて行くと右手に見える吉原神社に参拝し、喜裕美会の発展と三越劇場の成功を祈願してきました。
 
吉原遊郭は元和3年(1617年)、幕府の許可を得て庄司甚右衛門が江戸市中に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町(ふきやちょう)の東隣(現在の日本橋人形町周辺)に集めたことに始まります。この地には葦が生い茂っており、そこから「葦原」、転じて「吉原」と命名されました。しかし、次第に吉原が江戸の中心地になってしまったため、明暦3年(1655年)に現在地である千束村へ移転となりました。以後、日本橋葺屋町にあった頃の吉原を「元吉原」、移転後の吉原を「新吉原」といいます。
 
吉原神社は、かつて吉原遊郭にお祀りされていた5つの稲荷神社と遊郭に隣接する吉原弁財天を明治5年に合祀した神社です。五穀豊穣をつかさどる神様、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を御祭神とし、お稲荷さんと呼ばれて親しまれています。稲荷とは稲が成るつまり稲の生育を意味し、古くから家内安全・商売繁盛の神様として信仰されています。さらに当社の倉稲魂命はかつて吉原遊郭の遊女たちの信仰を集めたことから現在でも女性の様々な願いを叶えてくださることで知られています。
(吉原神社HPより)
 
小唄には吉原を唄った曲が多くありますが、当時の面影が偲ばれ、吉原には梅が合うと実感しました。
 
梅は咲いたか
 
梅は咲いたか 桜はまだかいな
柳ゃなよなよ 風次第
山吹ゃ浮気で 色ばっかり しょんがいな
 
浅蜊取れたか 蛤ゃまだかいな
鮑くよくよ 片想い
さざえは悋気で 角ばっかり しょんがいな
 
柳橋から小舟を急がせ
舟はゆらゆら波次第
舟から上がって 土手八丁 吉原へご案内
(解説は師匠のHP歌詞集、又は小唄選曲集第一集七頁を参照してください)

小野照崎神社

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こんにちは

第6回喜裕美会まで3ヶ月を切るなか、昨日のグループレッスンでは、まとまりのある小唄三味線を聴くことができました。
三越劇場の成功と小唄三味線の上達を祈願しに芸能が御神徳として有名な入谷にある『小野照崎神社』に参拝してきました。

御祭神の小野篁(たかむら)公は、平安時代初期の歌人で「日本の白楽天」と呼ばれるほどの学者でもあり、孫には道風、小町という才に溢れた歴史上の人物がおり、漢詩、和歌、書道、絵画、音楽等、多彩な感性で平安文化の礎を築き「芸能の神様」として、数々の逸話と共に広く信仰されております。
(小野照崎神社HPより)
また、売れない時代の渥美清が、将来の活躍を願掛けしたあと、寅さんの役をもらって国民的映画の主役の座を手に入れたというエピソードでも知られている神社です。

三千歳

市川三升詞
吉田草紙庵曲
昭和十年作

一日逢わねば千日の
思いも積もる春の夜の
静かに更けて冴え返る
寒さをかこう袖屏風
入谷の寮の睦言も
淡き灯影に波打たす
隙間をもるる雪下ろし

(河竹黙阿弥作「天衣紛上野初花」の片岡直次郎と吉原大口屋の遊女三千歳との入谷の寮での濡場を唄った清元の名曲「忍逢春雪解」(清元お葉作)に材をとって小唄にしたもの。解説は師匠のHP歌詞集、小唄選曲集第七集三頁を参照してください)

お伊勢まいり

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こんにちは

名取式も無事終わり一区切りついたので、春日会の発展と来年の喜裕美会の成功を祈願しに、台風が近づくなか伊勢神宮の外宮、内宮に参拝してきました。

伊勢神宮は、正式には『神宮』といいます。内宮と外宮を中心に125の宮社があります。外宮から内宮の順にお参りするのが昔からのならわしです。内宮は皇室の御祖先であり、太陽にもたとえられる天照大御神さまをおまつりし、全国より崇敬を集めています。外宮は天照大御神さまのお食事を司り、産業の守り神である豊受大御神さまをおまつりしています。内宮は約2000年、外宮は約1500年の歴史があります。
(伊勢神宮HPより)

ちなみに、伊勢神宮には、おみくじがありません。
伊勢神宮に参拝に訪れた日は誰もが吉日とされています。また、神社の参拝は平穏無事に過ごせていることに感謝することであるということからおみくじがないと言われています。
神聖な大気のなか、雨に洗い流されて身も心も新たな気持ちになりました。

お伊勢まいり

お伊勢まいりに
石部の茶屋であったとさ
可愛い長右衛門さんの岩田帯しめたとさ
えっささのえっささのえっささのさ

(解説は師匠のHP歌詞集、又は小唄選曲集第一集8頁を参照してください)

インスタグラム

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はじめまして
フレブルのコウタです。

最近、無料の共有スマホアプリ、写真に特化したSNS『インスタグラム』が、若い女の子の間で大流行っているそうですね…

・フェイスブック、ツィッターは
いつでも
どこでも
誰とでも
なんで気疲れするけど
・インスタグラムは
今だけ
ここだけ
私だけ
なんで気分がいいらしいですよ。

ウケる写真は「自分の世界観をさりげなく表現する」ことが大事だって、人気インスタグラマーが言ってたけど、インスタって、なんか『小唄』と似てませんか?

小唄入門

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こんにちは

小唄入門(昭和30年1月発行、本山萩舟、杉原残華著)という小唄全盛期に出版された本を読んでみましたので、紹介させていただきます。

小唄とは、手っ取り早く言えば、「話し上手に聴き上手の境地」だということである。
話術の巧みさと同じようなもので、話している当人もいい気分なら聴き手に回った人も思わず引き込まれるという気合いである。
従って、気取って唄い出す必要もなければ、ことさら紋付き袴の心構えといったものも考えなければいけないということもない。
淡々として唄い出し淡々と唄いおさめて、しかも心がしっとりと濡れる境地に至れば申し分ないのである。
要するに、唄ってから肩がこるとか、息苦しくなるというような無理をせずに、浴衣を引っかけてお湯屋へ行くような心安さをもって親しんで頂きたいと思うのである。

「小唄は三味線をあしらいに使って唄い、端唄は三味線にのせて唄う、小唄は唄い込まれる唄の文句の面白さを味わい、端唄は節回しと声づかいのよさに耳を傾ける。端唄は三味線にのせながら三味線にひきずられぬ自由さを持って唄い、どこまでも声を聞かせ、節を聞かせるものだが、小唄はあくまで文句と気分を味わせるものでなければならない」
これは、平山盧江氏の主張であるが、言い得てまことに妙である。

先日、初めて第49回ライオンズ小唄会に出席させていただき、ベテランの諸先輩の小唄を拝聴して、著者の話をなるほどと納得した次第です。
特に、トリを取ったライオンズ小唄会会長の小唄は、師匠からも一度聴いておいた方がいいと言われましたが、声の張り、艶、間、音程、節回し、小唄の文句と気分に引き込まれてしまいました。
「気分よく」は、師匠もよく口にされますが、小唄って皆をいい気分にさせる『癒し系の和芸』なんですね!

江戸城散策

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こんにちは

丸ビルに立ち寄った後、好天は誘われて江戸城を散策してきましたので、レポさせていただきます。

長禄元年(1457年)に太田道灌が、この地に平山城を築いた後、北条氏の支城の時代を経て、天正18年(1590年)に徳川家康が入城し、以後、徳川氏15代の居城であった。

数ある名跡の中で「なぜ、江戸城天守閣は再建されなかったのか」という『富士見櫓』にまつわるのエピソードを紹介させていただきます。

富士見櫓は江戸城旧本丸の南東隅に位置し、品川の海や富士山が一望できました。現存の三重櫓は、万治2年(1659年)の再建で、江戸城本丸の貴重な遺構です。

明歴3年(1657年)の大火で天守閣が消失し、当時の第4代将軍、徳川家綱は天守閣を再建しようとしましたが、叔父の保科正之の「戦国の世は終わったので、天守閣よりも大火のときに江戸庶民が避難できる両国橋を造りましょう(当時、隅田川の大川には防備の面から一本も橋がなかった)」という進言により、富士見櫓が天守閣に代用されました。
その後、その時の意志を継いで、天守閣は建てらていません。

保科正之(1611-1673)
第3代将軍、徳川家光の異母兄弟で、家光と家綱を補佐し、幕閣に重きをなした。日本史上屈指の名君と言われている。
第2代将軍徳川秀忠が、妻のお江が恐妻で側室が持てなかったので、女中のお静に生ませた子。保科家へ養子に出されたが、謹直で有能であったため、徳川家に呼び戻され、幕府より松平姓を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず、生涯、保科姓で通した。

Mの記憶

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こんにちは

久しぶりに丸ビル(丸の内ビルディング、2002年)に行ったらエントランスに『Mの記憶』という洒落たオブジェがあったので、紹介させていただきます。

私の『Mの記憶』と言えば、1階にあった竹葉亭のまぐちゃ(まぐろ茶漬け)です。本当に美味しくて、よく食べに来たのを懐かしく思い出しました。

旧丸ビル(丸ノ内ビルヂング、1923年)に基礎として用いられた松杭が驚くほどの鮮度で回収され、その中の1本を選び、旧丸ビルがたどった年代を切り刻み、そのまま水平に床に埋めた作品です。
丸ノ内は昔は海だったので地盤が弱いため、基礎に12〜15メートルの松杭を5400本使ったそうです。
そしてもう1本、今度はブロンズに鋳抜き、未来への年代を切り刻んで、床下の作品と対応させるように屹立させた、時間と記憶をテーマにした土屋公雄氏の作品です。