藤十郎の恋

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こんにちは

小唄の理解を深めるため、菊池寛が大正8年に発表した小説、初代坂田藤十郎(1647-1709、上方歌舞伎の創始者の一人で和事を確立した役者)の実話をベースにした『藤十郎の恋』を読んでみましたので、紹介させていただきます。

舞台は元禄11年(1698年)、春の京都四条河原、万大夫座の名優、坂田藤十郎は、近頃、江戸より都上りの中村七三郎の人気に押されていて、次の新作狂言でどうしても巻き返しを図りたかった。そこに狂言作家の近松門左衛門が持ち込んできたのが、当時、世の中を騒がせた、おさん、茂兵衛の心中事件を題材にした密通物。
しかし、不義密通は引き回しのうえ二つに重ねて四つ切りにされた時代、藤十郎に道ならぬ恋の経験などなく密夫の役の工夫がどうしてもつかずにいた。
悩み抜いた挙げ句、「二十年来、密かに想い続けてきたこの藤十郎の恋をあわれとは思さぬか」と偽りの恋を仕掛け、貞淑な美人と評判の高い人妻、芝居茶屋の女房、お梶を口説く。
幼なじみの藤十郎に人知れぬ思慕の情を抱き続けていたお梶、その言葉を本心と信じ意を決して覚悟を決め、絹行灯の灯をフッと吹き消したあと、障子の外をうかがい、男に身を任せたそのとき、藤十郎は突然暗闇の中に消え去ってしまう。
後日、そのときの様子を取り入れた真に迫った藤十郎の演技は絶賛されるが、偽りの恋で心を弄ばれ傷ついたお梶は、受けた屈辱に耐えきれず、女の意地を通すのであります。

昭和30年の大映映画、長谷川一夫、京マチ子主演の『藤十郎の戀』も傑作です。特に、藤十郎に言い寄られてからのお梶の葛藤を演じる京マチ子の官能美は絶品です。

紫の羽織(宵の謎)

昭和7年
上田哥川亭詩
吉田草紙庵曲

紫の羽織の紐の結び目の
どうして固い心やら
案じ過ごしてつい転寝の
片敷く袖の肘枕
まくら行燈のほんのりと
ゆかりの色の小夜時雨
濡れながら見る夢占に
涙で解けた宵の謎
(解説は師匠の小唄選曲集第七集17頁参照)

両国橋

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こんにちは

隅田川で涼み舟に乗ってきましたので、隅田川を代表する橋、『両国橋』についてレポさせていただきます。

江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は認めず、それまでは上流の千住大橋しかなかったが、明暦3年(1657年)、江戸市街の2/3を焼失し死者10万人を出した明暦の大火をきっかけに、万治2年(1659年)に防災・防火目的のための避難ルートとして江戸中心部を流れる下流部に架けられた最初の橋。位置は現在より少し下流にあった。
この辺りは大川と呼ばれていたため、当初、大橋と呼んだが、隅田川が武蔵と下総の両国に架かることから、両国橋と正式に改められた。
その後、元禄年間(1690年代)になってから新大橋、続いて永代橋が架橋された。
両国橋西たもとには火除地として広小路が設けられ、見世物小屋や出店などが集い、江戸随一の盛り場として賑わった。両国の川開きは5月28日に行われ、8月28日までの納涼期間中は花火が打ち上げられ、江戸庶民を魅了した。

涼み舟

渥美清太郎詩
春日とよ曲

夏の涼みは両国で
行き逢う舟のさざめ唄
月明かり見れば朧の爪弾き姿
忍び逢う夜の首尾の松
うろうろ舟の行逢いに
「エエ 西瓜はいかが豆や枝豆」
影芝居まず銅鑼の音
「しがねえ恋の情けが仇」
命の綱の切れたのを
どう取りとめて木更津から
めぐる月日も百代歳
今の両国は鉄の橋
濁った浮世に黒い水
お江戸懐かしいと思いませんかよ
(渥美清太郎:1892-1959、演劇評論家、演劇界の生き字引と言われ、歌舞伎大全、日本演劇辞典、邦楽舞踏辞典、日本戯曲全集などを編集)

出雲大社

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こんにちは

出雲大社で喜裕美会の発展を祈願して詣りましたので、レポさせていただきます。
普段はお詣りできない本殿のある「八足門」内で特別参拝させていただきました。

出雲大社(いずもおおやしろ)
島根県出雲空港から直通バス25分

古事記(712年)や日本書記(720年)によると、大国主大神様が国づくりされた日本の国土を皇室のご祖先神である天照大神様に国譲りされた際に、そのご功績を称えて壮大な神殿(本殿)が創建され、大国主大神様がお鎮まりになられたと記されています。
大国主大神様は、「縁結びの神様」として古くから信仰されていますが、これは単に男女のご縁だけでなく、人々を取り巻くあらゆる繋がりのご縁です。広く人々の幸せのご縁を結んでくださる縁結びの神様です。
(出雲大社のHPより)

出雲大社・本殿の天井には「八雲の図」が描かれています。しかし、実際には七つの雲しか描かれていません。
これは、一つの雲を描かずにわざと未完成とした作品であり、出雲大社や大国主大神のご威光が未来永劫続き、無限の広がりを持つということを表していると言われています。
出雲の枕詞は「八雲立つ」で古事記に出てくる須佐之男命(大国主大神の父)が読んだ和歌
「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」
が日本初の和歌とされることから和歌のことを八雲とも言い、八雲は出雲を象徴する言葉でもあります。

夕立や(さっと)

夕立や
さっと吹きくるねやの戸に
ぴかぴかおおこわ
雷さんはこわけれど
わたしが為には出雲より
結んだ縁の蚊帳のうち
にくや晴れゆく夏の空

明治一代女

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こんにちは

小唄の理解を深めるために川口松太郎の小説『明治一代女』(昭和10年)を読んでみましたので、紹介させていただきます。

明治一代女といえば、
「浮いた浮いたと浜町河岸に
浮かれ柳の恥ずかしや
人目をしのんで小舟を出せば
すねた夜風が邪魔をする」
という流行歌が思い浮かびますが、この小説は明治20年におきた浜町「酔月楼」の女将花井お梅が使用人の八杉峯吉を刺殺した「箱屋事件」を題材にして書かれました。

柳橋芸妓叶屋のお梅が、末は夫婦と誓った歌舞伎役者、沢村仙枝の三代目仙之助襲名費用、千両を何とか工面してあげたいと考え、慕われていた箱屋の巳之吉に夫婦になることを条件に田舎の田畑を売って用立ててもらう。
しかし、大雪の降る夜更けの浜町河岸で、仙枝に未練の残るお梅に嫉妬し酒に酔って七首(あいくち)を持ち出した巳之吉と揉み合ったはずみで、逆に刺し殺してしまう。
誤って巳之吉を殺めてしまったお梅は慣れない安宿を転々として身を隠していたが、仙之助の晴れの改名口上に姿をあらわすのであります。

昭和10年11月の明治座、新派の芝居で主役の花柳章太郎(1894-1965、戦前から戦後にかけて活躍した新派を代表する女形役者。人間国宝)は、大雪の降る大川端殺しの場で巳之吉と揉み合うお梅を黒地に朱の縦縞の着物「赤大名」で演じ、初日の客席にいた原作演出の川口松太郎もその美しさに酔いしれてしまったそうです。
以後、お梅の衣装は赤の大名縞「赤大名」が定番となりました。

小唄は、花柳章太郎が「大雪や女の傘の持ち重み」という自作の句を冒頭に据え、雪の浜町河岸のガス灯と枝垂れ柳の間に立つ赤大名に潰し島田のお梅を唄いあげたものです(師匠の小唄選曲集第一集14頁参照)。

大雪(明治一代女)

花柳章太郎詩
春日とよ年曲

本調子
替え手三下がり

大雪や女の傘の持ち重み
河岸に枝垂れし枯柳
火影ほのめくガス灯火
赤大名に献上の
仇な潰しのもつれ髪
ほんに辛気な渋蛇の目

下谷神社夏詣

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こんにちは

梅雨明けして本格的な夏になったということで、小唄三味線の稽古の帰りがけに下谷神社にお詣りしてきましたので、レポさせていただきます。

下谷神社
銀座線「稲荷町」から徒歩2分

天平2年(730年)、奈良時代に上野忍ヶ岡の地に創建され、寛永4年(1680年)、寛永寺建立にあたり社地を上野山下に移した後、昭和3年、区画整理により現在の地に移った。
都内で最も古い「お稲荷様」
昔は「正一位下谷稲荷社」と称し祀られていたので、この町を「稲荷町」と呼ぶようになる。
寛政10年(1798年)6月、初代山生亭花楽が境内で5日間の寄席興行を行い、初めて寄席が行われた由縁の地で、境内には「寄席発祥の地」の石碑がある。
それ以前の落語は身分の高い人の前で一対一で話をしていたそうです。

あの日から

小野金次郎詩
中山小十郎曲

あの日から
噂も聞かず丸三月
出会い頭は忍ばずの
蓮もすがれた片かげり
会えてどうなるものでなし
私もこんなに痩せました
義理の枷
(解説は師匠のHPの歌詞集を参照してください)

深川と歌舞伎

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こんにちは

小唄の理解を深めるために炎天下のなか、★門前仲町で降りて『深川』(お不動様→八幡様→江戸資料館)を散策してきましたのでレポさせていただきます。

深川不動尊
正式名称は、成田山東京別院深川不動堂。開創は元禄16年(1703年)、成田山新勝寺の御本尊を江戸に奉持し出開帳(特別拝観)したことが深川不動の起こりです。

富岡八幡宮
寛永4年(1627年)、横浜市金沢区にある富岡八幡宮から分社して同じ社名を許され、永代島に八幡宮を建立したことが創建とされます。
江戸勧進相撲発祥の地として有名。貞享元年(1684年)、幕府より春秋の2場所の勧進相撲が許され、以降約100年間にわたって本場所が境内で行われました。横綱が最高位になったのは明治以降で、当時は大関が最高位で横綱は優れた大関に与えられた称号でした。

深川江戸資料館
江戸時代末(天保年間)の深川佐賀町の町並みが再現されており、当時にタイムスリップできます。
当日はゲストの新内の多賀太夫師匠が猪牙舟の舟着き場で三味線の弾き唄いで新内を語ってくれましたので、より一層、深川の風情を醸し出していました。
また、11/2まで企画展『歌舞伎と深川』が開催されており、?歌舞伎の誕生、?江戸歌舞伎の形成、?市川團十郎と深川?深川ゆかりの役者たち、?深川情緒と「深川物」、?歌舞伎の舞台・深川、と様々な視点から『歌舞伎と深川』を紹介しています。
深川は、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に出発するまでの9年間暮らした住居『採茶庵』や「南総里見八犬伝」の作者、滝沢馬琴の生誕の地として知られていますが、歌舞伎ゆかりの地でもあり、市川團十郎や鶴屋南北をはじめ多くの役者や狂言作家が住み、また様々な歌舞伎の舞台となりました。
特に、江戸歌舞伎の特色である荒事で疫病や災厄を祓う現人神を演じ『江戸の守護神』『役者の氏神』と呼ばれた市川團十郎は江戸っ子を代表する大スターでした。成田屋の代々の團十郎は深川永代寺で成田山出開帳で取り持ち役を務めていて、特に縁の深い役者です。

深川関係の小唄は『辰巳の左褄』をはじめ『仇情八幡祭』『巽ゃよいとこ』『櫓下』など八幡様が出てくる曲が多いですが、『いつにしか』をはじめ『佃流し』『深川』など深川をテーマにした曲もあります(師匠の小唄選曲集第八集23頁参照)。

深川

猪牙で行くのは深川通い
あがる桟橋アレワイサノサ
いそいそと客の心はうわの空
飛んで行きたいアレワイサノサ
主のそば

鶴八鶴次郎と新内『明烏』

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こんにちは

小唄の理解を深めるために、昭和10年の第1回直木賞受賞作品、川口松太郎の小説『鶴八鶴次郎』を読んでみましたので、紹介させていただきます。

舞台は大正時代、東京に新内語りの二枚看板、三味の鶴賀鶴八と語りの鶴次郎という若手の名コンビがいた。
二人が出るときは近所の寄席が不入りになるほどの人気で八丁飢饉の評判をとっていた。
鶴八は先代の一人娘、鶴次郎は先代の弟子という間柄。
芸に関しては頑固な二人、芸熱心から喧嘩が絶えなかったが、いつしか好いて好かれる仲になり夫婦の誓いを交わす。
しかし、鶴次郎は鶴八の幸せを考えて別れを決意するのであります。

新内の代表作と言えば『明烏』
明和6年(1769年)におきた男女の心中事件を題材にした『明烏夢泡雪』です。
江戸で大当りをとり人気が出たため清元に移され『明烏花濡衣』という題名で歌舞伎にもなりました。
新吉原山名屋の遊女浦里に入れ揚げた春日屋の時次郎。
次第に揚げ代に事欠くようになり、人目を忍んで浦里の部屋に隠れていたところを見つかり袋叩きにされ追い出される。
一方、浦里は廓の亭主から雪の降る庭で激しい折檻受ける。三下り「昨日の花は今日の夢、今はわが身につまされて、義理という字は是非もなや、勤めをする身の儘ならず、」と浦里が身の不運を嘆いているところへ、塀を乗り越えて時次郎があらわれ、二人は手に手をとって落ちのびてゆく。
白雪に崩れおちた緋縮緬の長襦袢、雪の中の折檻という凄惨な美しさ、歌舞伎でもお馴染みの名場面です。

昭和13年(1938年)の東宝映画、成瀬巳喜男監督、長谷川一夫、山田五十鈴主演の『鶴八鶴次郎』も傑作です。
天下の美男美女の若き頃の競演。二人の台詞回しが何とも粋です。
師匠の小唄選曲集第十集の解説(19-20頁)にもその場面を載せていただいてますが、DVDは出てないので、興味のある方はYou_Tubeでご覧ください。

心して(鶴次郎)

河上渓介詩
春日とよ曲

心して我から捨てし恋なれど
堰くる涙堪えかね
憂さを忘れん盃の
酒の味さえほろ苦く

湯島天神と婦系図

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こんにちは

小唄の理解を深めるのために、春日会名取式が執り行われる湯島天神にお詣りしてきましたので、レポさせていただきます。

正式名称は湯島天満宮。
社伝によれば、雄略天皇2年(458年)、雄略天皇の勅命により天之手力雄命を祀る神社として創建されたと伝えられている。
文和4年(1355年)、住民の請願により菅原道真を勧請し老松の根元に合祀したことが縁起で、その後、太田道灌が再興し、徳川家康が入府のときに神領に寄進される。

新派劇『婦系図』湯島境内の場で有名。まだ、江戸の名残りがほのかに残る、明治40年代の柳橋。売れっ妓のお蔦は幼なじみのドイツ文学者の卵、早瀬主税と再会し恩師の大学教授酒井の許しを得ぬまま所帯を持つ。
それを知った酒井は身分違いのお蔦との仲を反対する。
『俺を棄てるか、婦を棄てるか』と真砂町の先生に迫られた主税は湯島境内でお蔦に別れを告げ学の道に戻る。
「お蔦、何も言わずに俺と別れてくれ」
「切れるの別れるのって、そんなことは芸者のときに言うものよ。今の私にゃ、死ねと言ってください」
涙残して別れるよりも
いっそ絶ちたいこの命
湯島白梅お蔦のこころ知るや知らずや
なぜ散りいそぐ
春は名のみの切り通し

舞台で満場の紅涙を絞った「湯島の白梅」の名場面です。

ところが、泉鏡花の原作を読んでみると、この台詞はおろか湯島天神も出てきません。
実は、芝居のあまりの人気に鏡花自身が後年この台詞や湯島の境内を取り入れて『湯島の境内』という戯曲を書いたということです。
市川雷蔵主演の映画『婦系図』にはちゃんと出てきます。まさに雷蔵のはまり役ですね!

湯島境内(婦系図)

河上渓介詩
春日とよ曲

久しぶり髷も似合った二人連れ
梅もほころぶ境内で
嬉しい思いも束の間に
義理にせかれた切れ話
お蔦が涙なくなくも
くぐる鳥居の影暗く
月もおぼろの春の宵

白猫柄

こんにちは。
小唄の勉強のために小雨降るなか、吉原近辺を散策してきました。

隅田川
ジョッキに映し出されたスカイツリー

今戸神社
招き猫発祥の地、白猫に出会えるのは超ラッキーだそうです


山谷掘
約八丁(約900m)今は公園になってます

吉原
見返り柳、名残惜しくて吉原を振り返りました