江戸城散策

170911_0857~01.jpg 170909_1152~01.jpg 170909_1157~01.jpg 170909_1216~01.jpg 170909_1213~01.jpg

こんにちは

丸ビルに立ち寄った後、好天は誘われて江戸城を散策してきましたので、レポさせていただきます。

長禄元年(1457年)に太田道灌が、この地に平山城を築いた後、北条氏の支城の時代を経て、天正18年(1590年)に徳川家康が入城し、以後、徳川氏15代の居城であった。

数ある名跡の中で「なぜ、江戸城天守閣は再建されなかったのか」という『富士見櫓』にまつわるのエピソードを紹介させていただきます。

富士見櫓は江戸城旧本丸の南東隅に位置し、品川の海や富士山が一望できました。現存の三重櫓は、万治2年(1659年)の再建で、江戸城本丸の貴重な遺構です。

明歴3年(1657年)の大火で天守閣が消失し、当時の第4代将軍、徳川家綱は天守閣を再建しようとしましたが、叔父の保科正之の「戦国の世は終わったので、天守閣よりも大火のときに江戸庶民が避難できる両国橋を造りましょう(当時、隅田川の大川には防備の面から一本も橋がなかった)」という進言により、富士見櫓が天守閣に代用されました。
その後、その時の意志を継いで、天守閣は建てらていません。

保科正之(1611-1673)
第3代将軍、徳川家光の異母兄弟で、家光と家綱を補佐し、幕閣に重きをなした。日本史上屈指の名君と言われている。
第2代将軍徳川秀忠が、妻のお江が恐妻で側室が持てなかったので、女中のお静に生ませた子。保科家へ養子に出されたが、謹直で有能であったため、徳川家に呼び戻され、幕府より松平姓を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず、生涯、保科姓で通した。