梅は咲いたか

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こんにちは
 
『梅は咲いたか』のイメージをふくらませるために、春の陽気に誘われて、梅が満開の吉原周辺を散策してきましたので、レポさせていただきます。
 
吉原の開祖、庄司甚右衛門が眠る深川にある雲光院(徳川家康の側室、阿茶局の菩提寺)で墓参りをし、釜匠で深川めしを食べたあと、柳橋から隅田川を舟で上り両国橋をくぐり、浅草ニ天門で降りて隅田公園で梅を観賞し、山谷掘(当時は水路でしたが、現在は埋め立てられて公園になっています)を八丁(約900m)ほど歩き、お歯黒どぶ(吉原は幅9mの堀に囲まれ外界から隔絶されていた)の石垣沿いを通り、吉原遊郭のメインストリート仲之町通りを歩いて行くと右手に見える吉原神社に参拝し、喜裕美会の発展と三越劇場の成功を祈願してきました。
 
吉原遊郭は元和3年(1617年)、幕府の許可を得て庄司甚右衛門が江戸市中に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町(ふきやちょう)の東隣(現在の日本橋人形町周辺)に集めたことに始まります。この地には葦が生い茂っており、そこから「葦原」、転じて「吉原」と命名されました。しかし、次第に吉原が江戸の中心地になってしまったため、明暦3年(1655年)に現在地である千束村へ移転となりました。以後、日本橋葺屋町にあった頃の吉原を「元吉原」、移転後の吉原を「新吉原」といいます。
 
吉原神社は、かつて吉原遊郭にお祀りされていた5つの稲荷神社と遊郭に隣接する吉原弁財天を明治5年に合祀した神社です。五穀豊穣をつかさどる神様、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を御祭神とし、お稲荷さんと呼ばれて親しまれています。稲荷とは稲が成るつまり稲の生育を意味し、古くから家内安全・商売繁盛の神様として信仰されています。さらに当社の倉稲魂命はかつて吉原遊郭の遊女たちの信仰を集めたことから現在でも女性の様々な願いを叶えてくださることで知られています。
(吉原神社HPより)
 
小唄には吉原を唄った曲が多くありますが、当時の面影が偲ばれ、吉原には梅が合うと実感しました。
 
梅は咲いたか
 
梅は咲いたか 桜はまだかいな
柳ゃなよなよ 風次第
山吹ゃ浮気で 色ばっかり しょんがいな
 
浅蜊取れたか 蛤ゃまだかいな
鮑くよくよ 片想い
さざえは悋気で 角ばっかり しょんがいな
 
柳橋から小舟を急がせ
舟はゆらゆら波次第
舟から上がって 土手八丁 吉原へご案内
(解説は師匠のHP歌詞集、又は小唄選曲集第一集七頁を参照してください)