松平不味公没後200年

180601_0826~01.jpg 180601_0846~02.jpg 180601_0853~01.jpg 180531_2135~01.jpg

こんにちは

松平不味公がいなければ、小唄というものが、この世になかったかもしれないので、小唄を習う者にとって忘れてはいけない人の一人です。

今週5月28日は、江戸時代後期の大名茶人として名高い出雲松江藩七代目当主・松平治郷(はるさと)(不味公)(1751-1818)没後200年でした。

日本的美意識の結晶といわれる茶の湯。幼い頃から茶の湯に親しんだ不味公は、その大成者・千利休を尊敬し、茶の湯が国を治める助けになると説き、地場産業として欠かせない窯元を育成し、自ら命名した和菓子を作らせるなど茶の湯の町・松江のイメージを高めました。また、茶の湯の名品のコレクターであり、自分の所有物以外にも名品を調査してイラストまで添えた文書作りは、後の文化財保護の考えを先取りしたものと言われています。
ところで、現在唄われている江戸小唄の最初の記念すべき作品『散るは浮き』は、二世清元延寿太夫の娘、清元お葉(1840-1901)が16歳のときに、父が遺した手箱の中に、清元贔屓で清元に特別に比護を与えた不味公から頂いた不味公自筆の和歌の短冊を見つけ、これに加筆し、清元の早間拍子を三味線にとり入れて作曲したもので、この作品により、お葉は、当時流行の江戸端唄でもなく、新興の歌沢節でもない、全く新しい作曲手法で作られた、小唄の創始者として後の世に知られています。
明治中期、お葉は晩年『芸界の三名人』と謳われ、小唄の弟子に次のように口伝しています。
「小唄というものは、節をつけずふんわりと温和に唄い、間をうまく合わせて、文字通り唄に表情をあらわすものだ」(延寿芸談)

「散るは浮き散らぬは沈むもみじ葉の影は高尾の山川の水」
(江戸では大崎に下屋敷があり、庭園には千利休が造った茶室を移築した独楽庵はじめ11棟の茶室があり、茶の湯三昧の余生を送っていた不味公が、お茶事に『山川』という打物の菓子を考案し、品川の伊勢屋筑後という菓子屋に作らせた。この菓子は今でも「不味好み」といって残っているが、そのときに『山川』に寄せて作った和歌)

今月の若草ライブでは、喜裕美会を代表するお姉様たちゴールデントリオの『散るは浮き』が聴けるので楽しみです。

散るは浮き

松平不味詞
清元お葉加筆、曲

散るは浮き
散らぬは沈むもみじ葉の
影は高尾か山川の
水の流れに月の影

(解説は師匠のHP歌詞集、または小唄選曲集第一集十二頁を参照してください)