兼六園

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こんにちは

旅の終わりに日本三名園の一つ、金沢の『兼六園』を訪れました。

お隣の金沢城公園も金沢大学の移転後、河北門、五十間長屋などの復元工事が完了し、きれいに整備されていました。

雁が夕空に列をなして飛んでいく様をかたどった「雁行橋」や、せせらぎを琴の音に見立て、琴橋の上に置かれた「ことじ灯籠」の周りの木々も少しずつ色づき始め、秋の気配を感じさます。
初秋の兼六園もいいですが、桜、梅、紅葉、雪の兼六園も良いそうですので、次は違うシーズンに訪れてみたいと思います。

風の盆

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こんにちは

飛騨高山を散策したあと世界遺産の白川郷に立ち寄り、師匠の十八番『風の盆恋歌』の舞台、坂道と水音の街、富山市八尾に「越中おわら風の盆」を見に来ています。

この歌の原作が、直木賞作家、高橋治(1929-2015、千葉県生まれ)の同名の長編小説『風の盆恋歌』です。
300年以上の歴史をもつ北陸の風物「風の盆」を舞台に、大人の恋の儚さを比類なき美しさで描いた名作です。歌を作詞した、なかにし礼が小説のストーリーを感動的に昇華しています。
この時期は、いつも八尾を訪れていたという著者が描きたかったのは、恋愛小説という形をとってはいても、実は「風の盆」そのものだったそうです。

八尾は井田川に沿った細長い坂の町である。
清洌な水が流れるこの地に今年も「風の盆」の季節がやってきた。
「風の盆」は、風の神送りと祖霊供養の盆踊りとが習合した民族芸能である。
秋風の立つ9月1日から3日間、『越中おわら節』が唄われ躍られる。

唄の町だよ
八尾の町は
唄で糸とる
(オワラ)
桑も摘む

三味線の
一の糸から
二の糸かけて
三の糸から
(オワラ)
唄が出る

唄で濡れたか
夜露を着たか
びんがほつれた
(オワラ)
風の盆

恋のつぶてか
窓打つあられ
開けりゃ身にしむ
(オワラ)
夜半の風

もしや来るかと
窓押しあけて
見れば
(オワラ)
雪ばかり

夕暮れとともに、万灯と呼ばれる、ぼんぼりに灯がともされると、ゆったりとした低い糸でリズムを刻む苦みばしった三味の音、それに乗せて胡弓の甘く悲しい音色が静かに流れてくる。
三味線が唄い、胡弓は唄が掬いきれなかった情感を訴える。
そして、どこからともなく現れる町流しの踊り手たち。洗練された身のこなし、そして、とりわけ美しい指先。

お囃子に合わせて賑やかに発散する踊りとは対象的に、内に向かって静かに陶酔していく踊りである「おわら風の盆」
静かに流れる時間に身を置きながら、この風景が永久(とわ)に続いてほしいと願っている自分がそこにいました。

風の盆恋歌

なかにし礼詩
三木たかし曲
石川さゆり歌

蚊帳の中から 花を見る
咲いてはかない酔芙蓉
若い日の美しい
私を抱いてほしかった
しのび逢う恋 風の盆

私あなたの腕の中
跳ねてはじけて鮎になる
この命 ほしいなら
いつでも死んでみせますわ
夜に泣いてる 三味の音

生きて添えない二人なら
旅に出ましょう 幻の
遅すぎた恋だから
命をかけてくつがえす
おわら恋歌道連れに

(テレサ・テンの数々のヒット曲を残した、今は亡き三木たかしが、日本の情緒ある風景、女性を描いた日本の歌曲を作りたいとして作曲しました。聴きたい方は師匠にリクエストお願いいたします)

長良川鵜飼

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こんにちは

ゆかた浚いも無事に終わり一息ついたので、江戸時代の町並みがそのまま残り「座頭市」の撮影にも使われた中山道にある木曽の宿場町『妻籠宿』に立ち寄ったあと、岐阜の長良川で鵜飼を見て来ましたので、レポされていただきます。

長良川鵜飼は、長良川で毎年5月11日から10月15日まで、中秋の名月の日以外は毎日行われます。
1300年の歴史があり、起源は漁としての鵜飼だが、現在は古典漁法を今に伝える観光としての鵜飼です。10キロほど上流の宮内庁の御料場で行われる8回の鵜飼は「御料鵜飼」と呼ばれ、捕れた鮎は皇居や明治神宮、伊勢神宮へ奉納されます。
漁法は舟主にかがり火を付けた鵜舟に鵜匠が乗り、10〜12羽の鵜をさばき、手繰り、かがり火で驚かせた鮎を鵜が潜って捕ります。
鵜匠は船縁を叩いてホウホウとかけ声をかけながら、鵜匠と鵜、鵜舟が一体となって鮎を追い込んでいきます。ホウホウのかけ声は鵜を落ち着かせる効果があります。
鵜匠は常日頃から鵜と一緒に生活しているため、鵜匠と鵜は呼吸の合った動きを見せ、見事に鮎を捕らえていきます。鵜の捕った鮎は、鵜匠により吐き篭に吐かせられます。
最後に行われる6艘の総がらみによる巻き狩り漁法は、特に幻想的です。

風折烏帽子

明治39年
山田顕義詩
清元お葉曲

風折烏帽子 腰簑つけて
清き流れの長良川
流れ尽きせぬ幾千代かけて
君に捧げん鮎の魚
船端叩いて ほーほーほっ

(解説は、師匠のHP歌詞集を参照してください)

小唄の宝典

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こんにちは

師匠の小唄選曲集やブログの歌詞集の解説でも参考にされている『小唄の宝典』3部作と言われる小唄鑑賞、江戸小唄、芝居小唄を紹介させていただきます。
各巻700頁前後ある大書なので内容が豊富で、たいへん勉強になる本です。

小唄鑑賞
木村菊太郎著
尾上梅幸題字
江戸の流れを汲む明治初期、そして大正から昭和に至るまでに作られた小唄397曲を高い見識をもって整理しています。この一冊による小唄知識の増大は、そのまま貴方の小唄への造詣をより深いものに育て大きな影響を及ぼすこと必至。

江戸小唄
木村菊太郎著
中村歌右衛門題字
江戸時代の小唄を主に、明治以降の分も加えた437曲、季節、出典、解釈と鑑賞、芝居との関わり、註釈と多角的な考察による小唄の徹底的究明は、さすがに親切な記述と賞賛されています。いわば小唄の原典を平易に解説した宝典なのです。

芝居小唄
木村菊太郎著
久保田万太郎題字
歌舞伎や新派、または役者に因む小唄375曲を選び出し、歳時記風に分類配列して、小唄の成り立ち、芝居の梗概、歌詞の解説、註釈、唄い方まで懇切丁寧に書いてあります。小唄の醍醐味ばかりでなく芝居の楽しさが併せて味わえる評判の好著。

木村菊太郎
1912-2006、桐生市生まれ。演劇評論家として雑誌や新聞に劇評を執筆した後、小唄に専念。小唄の発展に多大な貢献をした。平成18年、93歳にて他界。

(演劇出版社の解説より)

あげまん

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こんにちは

『あげまん』(1990年、伊丹十三脚本監督作品)で主演の宮本信子が演じる「弾き唄い」に憧れたのがキッカケで、姉弟子が小唄三味線を始めたと聞き、DVDを借りて観てみましたので、紹介させていただきます。

『あげまん』とは、「あげ」は上、「まん」は運、つまり上昇運を意味する言葉です。
『あげまん』の女、ナヨコが芸者の世界を描く、純愛物語です。

ナヨコは捨て子である。7月4日に稲荷神社に捨てられていたので、ナヨコと名付けられた。老夫婦に育てられたナヨコは、中学に上がると置屋に預けられ芸者、七四吉になる。
まさにバブル全盛期。金、色、出世に溺れる男たち。
男に利用されながらも好きな男のために生きる女、ナヨコは情が深く、よく尽くし、男はどんどん出世していく。

男に『ツキ 』をもたらす女、ナヨコを演じる宮本信子がいい演技をしてます。
特に、小唄ぶり『夜桜や』は、いい味を出してます。
確かに、これを観たら、粋に「弾き唄い」してみたくなりますね!姉さん

夜桜や

夜桜や
浮かれ烏がまいまいと
花の木影に誰やらが居るわいな
とぼけしゃんすな
芽吹き柳が風にもまれて
ふうわりふうわりと
オオサ そうじゃいな
そうじゃわいな

(文化年間の吉原の夜桜を唄った古い上方小唄。浮かれ烏とは、吉原を歩く冷やかし客。「花の木影〜そうじゃわいな」は、遊女のやりとりを唄ったもの(木村菊太郎著『江戸小唄』参照)解説は師匠の小唄選曲集第二集22頁を参照してください)

ゆかた会

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こんにちは

夏の小唄が多く唄われる日本小唄連盟主宰の第二十三回慈善演奏会(ゆかた会)を、喜裕美会のゆかた浚いに先駆けて鑑賞させていただきました。

日本小唄連盟は、小唄の流派の結束と小唄の持つ魅力を伝え、次の世代へ繋げることを目標に昭和31年に発足し、伝統芸能である小唄の昴揚と発展を図り、以てわが国の文化の進展に寄与することを目的としています。
(日本小唄連盟HPより)

春日慈善会は毎年11月に開催され、たいへん聴き応えのある会ですが、今回の慈善演奏会は、全82曲、5時間にわたって、いろいろな流派の小唄を堪能することができ、小唄の懐の深さを感じることができました。

夏の定番『川風』など、春日会でよく耳にする小唄も、節回しがかなり異なり、流派によってずいぶん違うものだと思いました。
また、『鶴次郎』と同じ替手が上調子の曲である『浮名も舟』『隅田の名どころ』『蚊やり香』『すだれごし』などを聴くことができ、たいへん勉強になりました。
上調子は、4の勘所辺りにギターでいうカポのような『かせ』を装着して糸を短くし、本手の完全4度上に調弦し、オクターブ違いで弾くことにより音に広がりを持たせたり、本手と違うリズムを加えて旋律に色を添えます。本手との『間』が一番大事で、音を色として捉える感覚で本手を生かして音の色彩を創り出していく技術が要求されます。爪弾きではなく、爪楊枝や手に隠れてしまうほど小さな小撥で弾きます。

日本人が忘れかけている日本の伝統、文化、歴史、季節感などを大上段に構えずに幅広く学ぶことができる、小唄三味線の楽しさを、今後も体感していきたいと思います。

川風

明治中期の作

川風に
つい誘われて涼み舟
文句もいつか口舌して
粋な簾の風の音に
洩れて聞こゆる忍び駒
いきな世界に照る月の
なかを流るる隅田川

(解説は師匠の小唄選曲集第一集10頁を参照してください)

花巻

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こんにちは

日本橋近辺を散策したあと、日本橋室町にある、そば屋の老舗『砂場』(明治2年創業)に入りました。
天ざる発祥の店ということですが、お品書きを見ると『花まき』とあります。小唄を聴きはじめてから気になっていたので、熱いうどんでいただきました。

『花巻』
かけに焼き海苔をのせ、薬味はおろし山葵で、葱は入れずに、海苔の香りと麺の味を楽しむものである(蕎麦の辞典より)
浅草海苔は磯の花にたとえられることから海苔を花に見立てた「花撒き」が転じて『花巻』になったようです。
江戸末期の百科辞典『守貞漫稿』にも「花巻 浅草海苔をあぶりて揉み加ふ」とあり、調理の簡単さもあって、江戸時代から店でも屋台でも定番の種物でした。

さて、前置きが長くなりましたが、『花巻』と言えば『うどんやさん』
歌謡曲調の節回しで小唄情緒の世界を描き、対する三味線は、それに溺れることなく手数の少ない選び抜かれた音色で応えています。
まさに『花巻』海苔の香りとコシのあるうどんのように二つの才能が旨く調和して、いい味を出しています。
最初から最後まで「おしゃべり」で、一幕物の展開を見せているところが、この小唄の魅力であり、難しさでもあります。
女性なら一度は唄ってみたくなる小唄ではないでしょうか。
春日とよ五千代師匠(1919-98、浅草生まれ)が、鰹節でダシをとった汁(つゆ)のようなコクがあるけどさっぱりした美声で唄い上げている『うどんやさん』が絶品ですので、ぜひ一度、味わってみてください。
(解説は師匠の小唄選曲集第六集3頁を参照してください)

うどんやさん

昭和41年
山上路夫詩
四世清元梅吉曲

うどんやさん
あつい花巻 一つ作って
おお寒む寒む
いいえ 家の人とやりあって
あたし一人で飛び出してきたの
ほんとに あの人 いけない人よ
大嫌い
だけどね
やさしいとこもある人よ
あたし本当は 心の底から惚れてるの
あら ごめんなさい おいくら

(山上路夫:1936-、作詞家、昭和歌謡を代表するヒットメーカー。『世界は二人のために』『夜明けのスキャット』『翼をください』『瀬戸の花嫁』『学生街の喫茶店』『岬めぐり』などヒット曲多数)
(四世清元梅吉:1932-、清元節三味線方、作曲家。重厚かつ華麗な撥さばき、解釈に優れた演奏で、早くから天才の名をほしいままにしてきた。人間国宝)

お江戸日本橋

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こんにちは

小唄の理解を深めるために、『日本橋』近辺を散策してきましたので、レポさせていただきます。

『日本橋』
慶長8年(1603年)に初代の木造橋が架けられ、翌年五街道の起点となりました。
明治44年(1911年)完成の現在の橋は、火事で焼けたりして20代目です。

日本橋ともなりますと三越(越後屋)はじめ老舗が沢山あり、見所たっぷりですが、今人気のアートアクアリュームの長〜い行列を尻目に、銀座線「三越前」地下コンコースにある壁面、『輝代勝覧』絵巻を眺めてきましたので、紹介させていただきます。

文化2年(1805年)の江戸、日本橋から今川橋までの大通り(現在の中央通り)の西側(三越側)を俯瞰描写した17メートルにわたる作品です。

とざい東西、ここにくり広げたる絵巻は大江戸八百八町のなかでも、とりわけ名高い日本橋
時は、11代徳川家斎の世、88軒の問屋の前の通りを繁華に行き交う人を数えてみれば、その数1671人、うち女性は200人、それに犬20匹、馬13頭、牛4頭、鷹2羽、猿1匹、(猫0匹、のら猫は少なかったようです)

「輝ける御代の勝れたる大江戸の景観」をとくとご覧あれ
作者不明。原画はベルリン国立アジア美術館所蔵。

7月23日に日本橋のたもと、「花の広場」に新しく観光案内所もでき、近頃の再開発で街が生まれ変わりましたので、興味のある方は一度ゆっくり歩いてみてはいかがでしょうか。

お江戸日本橋

作詞・作曲者不詳

お江戸日本橋七つ立ち 初上り
行列揃えてアレワイサノサ
こちゃ 高輪夜明けて提灯消す
こちゃえ こちゃえ
(天保時代(1831-45年)に流行した俗謡『はねだ節』が、やがて「コチャエ、コチャエ」の囃子を伴った『コチャエ節』となり、さらに東海道五十三次の替え歌『お江戸日本橋』が誕生しました。解説は師匠の小唄選曲集第九集3頁を参照してください)

残菊物語

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こんにちは

小唄の理解を深めるために、溝口健二(1898-1956、湯島生まれ。女性映画の巨匠と呼ばれ、一貫して虐げられた女性の姿を冷徹なリアリズムで描き、国際的に高い評価を受けた。代表作に『雨月物語』『西鶴一代女』)監督の映画史上に残る名作と言われている、村松梢風原作の『残菊物語』(昭和14年)を2015年カンヌ国際映画祭クラシック部門で上映されたデジタル修復版で観てみましたので、紹介させていただきます。

舞台は明治時代初期の東京。人気が出て天狗になっていたニ代目・尾上菊之助は、歌舞伎界の名家、五代目・尾上菊五郎の養子として甘やかされて育ち、周囲からもちやほやされていたため、自らの芸の未熟さに気づかずにいた。
そんなとき、義弟の若い乳母、お徳に自分の芸を批判され、自分の名声が義父、菊五郎の威光によるものと気づかされる。
そんなお徳に、いつしか好意を抱くようになる菊之助。しかし、二人の噂を耳にした母親は、乳母と夫婦になることは音羽屋の恥と、お徳に暇を出してしまう。それに憤慨した菊之助は家を飛び出し、大阪で舞台に立つようになるが、目の肥えた大阪の観客に受け入れられず、お徳と二人、旅回りに出ることに。それによって菊之助の芸は次第に磨かれていく。数年後、お徳は菊之助と別れるのと引き換えに歌舞伎の世界に戻れるように頼み込み、菊五郎もそれを受け入れる。
初日の舞台には、袖から菊之助の姿を満足そうに見つめるお徳の姿がありました。

哀しくも慈愛と情感あふれる姿を、演技の流れを断ち切らない「長回し」という手法で撮影することによって、芸に精進する役者を一途に支え続ける女を描きあげています。
戦前の歌舞伎の舞台や浪花の夏の風物詩、船乗り込みなど興味深い場面が随所に出てきますので、歌舞伎ファンにはお薦めの映画です。
You_Tubeにもアップされてますので、興味のある方はご覧ください。

ひとすじに(残菊物語)

河上渓介詩
春日とよ曲

一筋に
思うお徳のまごころに
引かれて我も名門を
すてて浪花の侘住居
残んの菊も色あせて

葛飾北斎(画狂老人卍)お墓参り

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こんにちは

『神奈川冲波裏』や『凱風快晴』など富士山の浮世絵で世界的に知られる葛飾北斎が意外と近くで眠ってましたので、お盆ということで、小唄三味線の稽古の帰りがけに聖教寺さんにお墓参りさせていただきましたので、レポさせていただきます。

聖教寺
銀座線「稲荷町」から徒歩5分

北斎は宝暦10年(1760年)9月23日、江戸本所割下水(墨田区亀沢)生まれ。
19歳のときに錦絵で有名な勝川春章に弟子入りし本格的に絵画の修行を始めました。
35歳で独立、独自の画境を切り拓いていきます。
39歳のときに北斎辰政を名乗り、肉筆画の「柳下傘持美人」図で世間に知られるようになります。
還暦を過ぎてから「冨獄三十六景」などの浮世絵の代表作を次々と描きました。
75歳からは画狂老人卍を名乗り、古典を題材にした絵を多く描くようになりました。
画号は勝川春朗から始まり画狂老人卍まで改号すること30回、転居すること93回という奇行に富んだ人でした。
最後は江戸浅草聖天町遍照院境内にある仮宅で、嘉永2年(1849年)4月18日暁七ッ時(午前4時頃)、三女のお栄(葛飾應為、北斎が「お〜い」と呼んでいたのでこの号になりました。絵も非常に上手で「吉原格子先の図」は傑作です)に看取られて90歳で亡くなりました。

北斎の最後の様子が弟子の露木為一によって明らかにされています。
「天があと10年、いやあと5年、生かしてくれるなら、まさに本物の絵師になり得たであろう」と最後まで執念を燃やしたそうです。まさに画狂老人ですね!世界の北斎をもってしても、芸は最後まで未完ということでしょうか。
雄大な富士に黒雲とともに龍が昇天する「富士越龍」が絶筆と言われています。最後は自分が龍になって大好きな富士山を越えていったのでしょう。

葬儀は4月19日朝四ッ時(午前10時)から菩提寺の聖教寺で営まれました。
墓石正面には「画狂老人卍墓」と大書し、右側面に時世の句が刻まれています。

ひと魂でゆく気散じや夏の原
(ひとだまになって夏の草原をのびのびと飛んで行こう)

谷中さくら通り

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こんにちは

日暮里駅南口からお稽古に通う『さくら通り』ですが、お盆も近いということで通り沿いを散策してみましたので、レポさせていただきます。

・天王寺
正式名称は『護国山尊重院天王寺』
鎌倉時代後期、土豪、関小次郎長耀が当地に立ち寄った日蓮聖人に帰依し草庵を作り、弟子の日源がここに聖人自刻の像を祀って長耀山感応寺と称したのが開創と伝えられている。寛永8年(1641年)、徳川家光、春日局の外護を受け、約3万坪の土地を拝領し、将軍家の祈祷所となる。
元禄13年(1700年)、徳川幕府公認の富突(富くじ)が興行され、目黒不動、湯島天神とともに「江戸の三富」として大いに賑わった。
元禄3年(1690年)鋳造の釈迦如来座像は、通称、丈六仏(座像なので高さは半分の8尺、2.4m)と言われ、江戸名所図会や新選東京名所図会に記載があり、江戸、東京のシンボル的な存在として知られていました。
谷中霊園は、明治政府が寺域の一部を没収して開設したものです。
(紅葉坂を上がった左側)

・天王寺五重塔跡
正保元年(1644年)建立。火事により寛政3年(1791年)再建。
明治25年(1892年)、幸田露伴の小説『五重塔』の題材になったことから一躍有名になり東京の名所として谷中霊園のシンボルになっていたが、昭和32年7月6日、心中による放火により心柱を残して焼け落ちた。洋裁師が使う金の指抜きが見つかり都内の洋裁店に勤める48歳の男性と21歳の女性の不倫清算のための焼身自殺と判明。
(交番の隣)

・長谷川一夫の墓
1908-1984、俳優、本名、林長二郎。
戦前から戦後にかけて活躍した二枚目の時代劇スター。歌舞伎から映画界に転身し300本以上の作品に出演。晩年は舞台に専念。俳優初の国民栄誉賞を受賞。
(交番の正面、甲9号2側)

・高橋お伝の墓
1850-1879、夫を毒殺したあと、浅草蔵前の旅館丸竹で古着屋吉蔵を殺害し「稀代の毒婦」と言われた。貧困と差別のうちに男に利用された気の毒な女性という見方もある。
明治12年1月31日に市ヶ谷の監獄で最後の斬首刑に処せられた人物と言われている。
歌舞伎や映画などの題材になったからでしょうか、なぜか、お参りすると三味線が上手くなる、という都市伝説がある。
墓石には辞世の句が刻まれている。
「しばらくは望みなき世にあらむより渡しいそぐや三津の河守」
(公衆トイレの隣、碑甲2号1側)

谷中墓地には、その他にも大勢の著名人が眠っていますので、興味のある方は、お参りされてください。
お墓の場所は、霊園管理所でもらえる谷中霊園案内図に載っています。
・主な著名人
天津乙女(宝塚歌劇団月組組長)
上田敏(文学者)
圓地文子(小説家)
柏戸剛(第47代横綱)
鏑木清方(日本画家)
川上音二郎(新派俳優)
澤田正二郎(新国劇創設者)
獅子文六(小説家、劇作家)
澁澤栄一(実業家)
津田真通(法学者)
出羽海秀光(第31代横綱)
中村仲蔵(歌舞伎役者)
ニコライ・カサートキン(宣教師、ニコライ堂創建者)
鳩山一郎(政治家)
花柳壽輔(花柳流創始者)
宮城道雄(箏曲家)
森繁久彌(俳優)
横山大観(日本画家)

春琴抄

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こんにちは

小唄の理解を深めるために、文豪・谷崎潤一郎(1886-1965、日本橋人形町生まれ。端麗な文章と巧みな語り口が特徴。代表作に『細雪』『痴人の愛』)の最高傑作、小説の神品とも言われる『春琴抄』を読んでみましたので、紹介させていただきます。

舞台は明治初頭の大阪道修町。
富裕な薬種商、鵙屋(もずや)の娘お琴(春琴)は、9歳のときに失明し琴三絃の稽古に励み糸竹の道を志す。
「手曳き」として身の回りの世話を任されたのが丁稚の佐助。
20歳で琴、三味線の師匠として独立した春琴だが、天性の美貌と気位の高さから恨みを買い、熱湯を浴びせられ顔に大火傷を負う。
包帯がとれ人に顔を見られることを嫌がる春琴。
喜悦を隠して尽くしぬく奉公人の佐助は、それを聞いて、春琴と同じ世界で生きていく決心をするのであります。

昔の稽古風景が描かれていますが、当時は譜面などはなく、芸は「口伝」でその「風」を繋いでいきました。三味線の稽古は、師匠が右手で膝を叩きながら口三味線で厳しく教え、まさに一期一会の真剣勝負でした。

名作だけに過去に6回映画化され、1935年には田中絹代、1954年には京マチ子、1961年には山本富士子、1976年には山口百恵などが、それぞれの個性で春琴を演じています。

春くれば(春琴抄)

河上渓介詩
春日とよ曲

春来れば
谷間の塒立ち出でて
ほのかに香る
梅が香を
偲びつ我は丸窓の
蔭に調べん
床し爪琴

浅草神社(三社様)

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こんにちは

小唄の理解を深めるために、『浅草神社』にお詣りしてきましたので、レポさせていただきます。

浅草寺本堂右隣にある神社で、通称、三社様。5月の例大祭、三社祭には3日間で毎年150万人の人出があります。
何で神社とお寺が一緒にあるのか、今では疑問に思いますが、平安時代に神仏習合という動きがあって、明治維新以前、1000年以上、それが普通のことでした。
明治時代の廃仏毀釈により大部分は切り離されてしまいましたが、全国にはまだ一緒にあるところも多いそうです。
浅草神社と浅草寺の関係ですが、まず、浅草寺が先に建立されました。
推古天皇36年(628年)、隅田川で漁師の桧前浜成・竹成兄弟の網に人の形をした像がかかりました。これを当時の地元の文化人、土師真中知に見せたところ、『聖観音菩薩』であることがわかり、その像が祀られたのが浅草寺です。
土師真中知の死後、子孫の夢枕に観世音菩薩が立たれ、「川から救い出して祀ってくれた桧前兄弟と土師真中知の3人を神として祀れ」と告げられたことから、この3人を祀ったのが浅草神社です。
それで、三社様と呼ばれるようにもなりました。

花の雲(助六)

川上渓介詩
宮川吟柳曲

花の雲
鐘は上野か浅草か
ゆかりの色の鉢巻も
江戸紫や伊達姿
堤八丁衣紋坂
大門くぐる助六に
煙管の雨が降るように
(解説は師匠のHPの歌詞集を参照してください)

藤十郎の恋

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こんにちは

小唄の理解を深めるため、菊池寛が大正8年に発表した小説、初代坂田藤十郎(1647-1709、上方歌舞伎の創始者の一人で和事を確立した役者)の実話をベースにした『藤十郎の恋』を読んでみましたので、紹介させていただきます。

舞台は元禄11年(1698年)、春の京都四条河原、万大夫座の名優、坂田藤十郎は、近頃、江戸より都上りの中村七三郎の人気に押されていて、次の新作狂言でどうしても巻き返しを図りたかった。そこに狂言作家の近松門左衛門が持ち込んできたのが、当時、世の中を騒がせた、おさん、茂兵衛の心中事件を題材にした密通物。
しかし、不義密通は引き回しのうえ二つに重ねて四つ切りにされた時代、藤十郎に道ならぬ恋の経験などなく密夫の役の工夫がどうしてもつかずにいた。
悩み抜いた挙げ句、「二十年来、密かに想い続けてきたこの藤十郎の恋をあわれとは思さぬか」と偽りの恋を仕掛け、貞淑な美人と評判の高い人妻、芝居茶屋の女房、お梶を口説く。
幼なじみの藤十郎に人知れぬ思慕の情を抱き続けていたお梶、その言葉を本心と信じ意を決して覚悟を決め、絹行灯の灯をフッと吹き消したあと、障子の外をうかがい、男に身を任せたそのとき、藤十郎は突然暗闇の中に消え去ってしまう。
後日、そのときの様子を取り入れた真に迫った藤十郎の演技は絶賛されるが、偽りの恋で心を弄ばれ傷ついたお梶は、受けた屈辱に耐えきれず、女の意地を通すのであります。

昭和30年の大映映画、長谷川一夫、京マチ子主演の『藤十郎の戀』も傑作です。特に、藤十郎に言い寄られてからのお梶の葛藤を演じる京マチ子の官能美は絶品です。

紫の羽織(宵の謎)

昭和7年
上田哥川亭詩
吉田草紙庵曲

紫の羽織の紐の結び目の
どうして固い心やら
案じ過ごしてつい転寝の
片敷く袖の肘枕
まくら行燈のほんのりと
ゆかりの色の小夜時雨
濡れながら見る夢占に
涙で解けた宵の謎
(解説は師匠の小唄選曲集第七集17頁参照)

両国橋

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こんにちは

隅田川で涼み舟に乗ってきましたので、隅田川を代表する橋、『両国橋』についてレポさせていただきます。

江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は認めず、それまでは上流の千住大橋しかなかったが、明暦3年(1657年)、江戸市街の2/3を焼失し死者10万人を出した明暦の大火をきっかけに、万治2年(1659年)に防災・防火目的のための避難ルートとして江戸中心部を流れる下流部に架けられた最初の橋。位置は現在より少し下流にあった。
この辺りは大川と呼ばれていたため、当初、大橋と呼んだが、隅田川が武蔵と下総の両国に架かることから、両国橋と正式に改められた。
その後、元禄年間(1690年代)になってから新大橋、続いて永代橋が架橋された。
両国橋西たもとには火除地として広小路が設けられ、見世物小屋や出店などが集い、江戸随一の盛り場として賑わった。両国の川開きは5月28日に行われ、8月28日までの納涼期間中は花火が打ち上げられ、江戸庶民を魅了した。

涼み舟

渥美清太郎詩
春日とよ曲

夏の涼みは両国で
行き逢う舟のさざめ唄
月明かり見れば朧の爪弾き姿
忍び逢う夜の首尾の松
うろうろ舟の行逢いに
「エエ 西瓜はいかが豆や枝豆」
影芝居まず銅鑼の音
「しがねえ恋の情けが仇」
命の綱の切れたのを
どう取りとめて木更津から
めぐる月日も百代歳
今の両国は鉄の橋
濁った浮世に黒い水
お江戸懐かしいと思いませんかよ
(渥美清太郎:1892-1959、演劇評論家、演劇界の生き字引と言われ、歌舞伎大全、日本演劇辞典、邦楽舞踏辞典、日本戯曲全集などを編集)

出雲大社

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こんにちは

出雲大社で喜裕美会の発展を祈願して詣りましたので、レポさせていただきます。
普段はお詣りできない本殿のある「八足門」内で特別参拝させていただきました。

出雲大社(いずもおおやしろ)
島根県出雲空港から直通バス25分

古事記(712年)や日本書記(720年)によると、大国主大神様が国づくりされた日本の国土を皇室のご祖先神である天照大神様に国譲りされた際に、そのご功績を称えて壮大な神殿(本殿)が創建され、大国主大神様がお鎮まりになられたと記されています。
大国主大神様は、「縁結びの神様」として古くから信仰されていますが、これは単に男女のご縁だけでなく、人々を取り巻くあらゆる繋がりのご縁です。広く人々の幸せのご縁を結んでくださる縁結びの神様です。
(出雲大社のHPより)

出雲大社・本殿の天井には「八雲の図」が描かれています。しかし、実際には七つの雲しか描かれていません。
これは、一つの雲を描かずにわざと未完成とした作品であり、出雲大社や大国主大神のご威光が未来永劫続き、無限の広がりを持つということを表していると言われています。
出雲の枕詞は「八雲立つ」で古事記に出てくる須佐之男命(大国主大神の父)が読んだ和歌
「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」
が日本初の和歌とされることから和歌のことを八雲とも言い、八雲は出雲を象徴する言葉でもあります。

夕立や(さっと)

夕立や
さっと吹きくるねやの戸に
ぴかぴかおおこわ
雷さんはこわけれど
わたしが為には出雲より
結んだ縁の蚊帳のうち
にくや晴れゆく夏の空

明治一代女

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こんにちは

小唄の理解を深めるために川口松太郎の小説『明治一代女』(昭和10年)を読んでみましたので、紹介させていただきます。

明治一代女といえば、
「浮いた浮いたと浜町河岸に
浮かれ柳の恥ずかしや
人目をしのんで小舟を出せば
すねた夜風が邪魔をする」
という流行歌が思い浮かびますが、この小説は明治20年におきた浜町「酔月楼」の女将花井お梅が使用人の八杉峯吉を刺殺した「箱屋事件」を題材にして書かれました。

柳橋芸妓叶屋のお梅が、末は夫婦と誓った歌舞伎役者、沢村仙枝の三代目仙之助襲名費用、千両を何とか工面してあげたいと考え、慕われていた箱屋の巳之吉に夫婦になることを条件に田舎の田畑を売って用立ててもらう。
しかし、大雪の降る夜更けの浜町河岸で、仙枝に未練の残るお梅に嫉妬し酒に酔って七首(あいくち)を持ち出した巳之吉と揉み合ったはずみで、逆に刺し殺してしまう。
誤って巳之吉を殺めてしまったお梅は慣れない安宿を転々として身を隠していたが、仙之助の晴れの改名口上に姿をあらわすのであります。

昭和10年11月の明治座、新派の芝居で主役の花柳章太郎(1894-1965、戦前から戦後にかけて活躍した新派を代表する女形役者。人間国宝)は、大雪の降る大川端殺しの場で巳之吉と揉み合うお梅を黒地に朱の縦縞の着物「赤大名」で演じ、初日の客席にいた原作演出の川口松太郎もその美しさに酔いしれてしまったそうです。
以後、お梅の衣装は赤の大名縞「赤大名」が定番となりました。

小唄は、花柳章太郎が「大雪や女の傘の持ち重み」という自作の句を冒頭に据え、雪の浜町河岸のガス灯と枝垂れ柳の間に立つ赤大名に潰し島田のお梅を唄いあげたものです(師匠の小唄選曲集第一集14頁参照)。

大雪(明治一代女)

花柳章太郎詩
春日とよ年曲

本調子
替え手三下がり

大雪や女の傘の持ち重み
河岸に枝垂れし枯柳
火影ほのめくガス灯火
赤大名に献上の
仇な潰しのもつれ髪
ほんに辛気な渋蛇の目

下谷神社夏詣

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こんにちは

梅雨明けして本格的な夏になったということで、小唄三味線の稽古の帰りがけに下谷神社にお詣りしてきましたので、レポさせていただきます。

下谷神社
銀座線「稲荷町」から徒歩2分

天平2年(730年)、奈良時代に上野忍ヶ岡の地に創建され、寛永4年(1680年)、寛永寺建立にあたり社地を上野山下に移した後、昭和3年、区画整理により現在の地に移った。
都内で最も古い「お稲荷様」
昔は「正一位下谷稲荷社」と称し祀られていたので、この町を「稲荷町」と呼ぶようになる。
寛政10年(1798年)6月、初代山生亭花楽が境内で5日間の寄席興行を行い、初めて寄席が行われた由縁の地で、境内には「寄席発祥の地」の石碑がある。
それ以前の落語は身分の高い人の前で一対一で話をしていたそうです。

あの日から

小野金次郎詩
中山小十郎曲

あの日から
噂も聞かず丸三月
出会い頭は忍ばずの
蓮もすがれた片かげり
会えてどうなるものでなし
私もこんなに痩せました
義理の枷
(解説は師匠のHPの歌詞集を参照してください)

深川と歌舞伎

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こんにちは

小唄の理解を深めるために炎天下のなか、★門前仲町で降りて『深川』(お不動様→八幡様→江戸資料館)を散策してきましたのでレポさせていただきます。

深川不動尊
正式名称は、成田山東京別院深川不動堂。開創は元禄16年(1703年)、成田山新勝寺の御本尊を江戸に奉持し出開帳(特別拝観)したことが深川不動の起こりです。

富岡八幡宮
寛永4年(1627年)、横浜市金沢区にある富岡八幡宮から分社して同じ社名を許され、永代島に八幡宮を建立したことが創建とされます。
江戸勧進相撲発祥の地として有名。貞享元年(1684年)、幕府より春秋の2場所の勧進相撲が許され、以降約100年間にわたって本場所が境内で行われました。横綱が最高位になったのは明治以降で、当時は大関が最高位で横綱は優れた大関に与えられた称号でした。

深川江戸資料館
江戸時代末(天保年間)の深川佐賀町の町並みが再現されており、当時にタイムスリップできます。
当日はゲストの新内の多賀太夫師匠が猪牙舟の舟着き場で三味線の弾き唄いで新内を語ってくれましたので、より一層、深川の風情を醸し出していました。
また、11/2まで企画展『歌舞伎と深川』が開催されており、?歌舞伎の誕生、?江戸歌舞伎の形成、?市川團十郎と深川?深川ゆかりの役者たち、?深川情緒と「深川物」、?歌舞伎の舞台・深川、と様々な視点から『歌舞伎と深川』を紹介しています。
深川は、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に出発するまでの9年間暮らした住居『採茶庵』や「南総里見八犬伝」の作者、滝沢馬琴の生誕の地として知られていますが、歌舞伎ゆかりの地でもあり、市川團十郎や鶴屋南北をはじめ多くの役者や狂言作家が住み、また様々な歌舞伎の舞台となりました。
特に、江戸歌舞伎の特色である荒事で疫病や災厄を祓う現人神を演じ『江戸の守護神』『役者の氏神』と呼ばれた市川團十郎は江戸っ子を代表する大スターでした。成田屋の代々の團十郎は深川永代寺で成田山出開帳で取り持ち役を務めていて、特に縁の深い役者です。

深川関係の小唄は『辰巳の左褄』をはじめ『仇情八幡祭』『巽ゃよいとこ』『櫓下』など八幡様が出てくる曲が多いですが、『いつにしか』をはじめ『佃流し』『深川』など深川をテーマにした曲もあります(師匠の小唄選曲集第八集23頁参照)。

深川

猪牙で行くのは深川通い
あがる桟橋アレワイサノサ
いそいそと客の心はうわの空
飛んで行きたいアレワイサノサ
主のそば