鶴八鶴次郎と新内『明烏』

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こんにちは

小唄の理解を深めるために、昭和10年の第1回直木賞受賞作品、川口松太郎の小説『鶴八鶴次郎』を読んでみましたので、紹介させていただきます。

舞台は大正時代、東京に新内語りの二枚看板、三味の鶴賀鶴八と語りの鶴次郎という若手の名コンビがいた。
二人が出るときは近所の寄席が不入りになるほどの人気で八丁飢饉の評判をとっていた。
鶴八は先代の一人娘、鶴次郎は先代の弟子という間柄。
芸に関しては頑固な二人、芸熱心から喧嘩が絶えなかったが、いつしか好いて好かれる仲になり夫婦の誓いを交わす。
しかし、鶴次郎は鶴八の幸せを考えて別れを決意するのであります。

新内の代表作と言えば『明烏』
明和6年(1769年)におきた男女の心中事件を題材にした『明烏夢泡雪』です。
江戸で大当りをとり人気が出たため清元に移され『明烏花濡衣』という題名で歌舞伎にもなりました。
新吉原山名屋の遊女浦里に入れ揚げた春日屋の時次郎。
次第に揚げ代に事欠くようになり、人目を忍んで浦里の部屋に隠れていたところを見つかり袋叩きにされ追い出される。
一方、浦里は廓の亭主から雪の降る庭で激しい折檻受ける。三下り「昨日の花は今日の夢、今はわが身につまされて、義理という字は是非もなや、勤めをする身の儘ならず、」と浦里が身の不運を嘆いているところへ、塀を乗り越えて時次郎があらわれ、二人は手に手をとって落ちのびてゆく。
白雪に崩れおちた緋縮緬の長襦袢、雪の中の折檻という凄惨な美しさ、歌舞伎でもお馴染みの名場面です。

昭和13年(1938年)の東宝映画、成瀬巳喜男監督、長谷川一夫、山田五十鈴主演の『鶴八鶴次郎』も傑作です。
天下の美男美女の若き頃の競演。二人の台詞回しが何とも粋です。
師匠の小唄選曲集第十集の解説(19-20頁)にもその場面を載せていただいてますが、DVDは出てないので、興味のある方はYou_Tubeでご覧ください。

心して(鶴次郎)

河上渓介詩
春日とよ曲

心して我から捨てし恋なれど
堰くる涙堪えかね
憂さを忘れん盃の
酒の味さえほろ苦く

湯島天神と婦系図

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こんにちは

小唄の理解を深めるのために、春日会名取式が執り行われる湯島天神にお詣りしてきましたので、レポさせていただきます。

正式名称は湯島天満宮。
社伝によれば、雄略天皇2年(458年)、雄略天皇の勅命により天之手力雄命を祀る神社として創建されたと伝えられている。
文和4年(1355年)、住民の請願により菅原道真を勧請し老松の根元に合祀したことが縁起で、その後、太田道灌が再興し、徳川家康が入府のときに神領に寄進される。

新派劇『婦系図』湯島境内の場で有名。まだ、江戸の名残りがほのかに残る、明治40年代の柳橋。売れっ妓のお蔦は幼なじみのドイツ文学者の卵、早瀬主税と再会し恩師の大学教授酒井の許しを得ぬまま所帯を持つ。
それを知った酒井は身分違いのお蔦との仲を反対する。
『俺を棄てるか、婦を棄てるか』と真砂町の先生に迫られた主税は湯島境内でお蔦に別れを告げ学の道に戻る。
「お蔦、何も言わずに俺と別れてくれ」
「切れるの別れるのって、そんなことは芸者のときに言うものよ。今の私にゃ、死ねと言ってください」
涙残して別れるよりも
いっそ絶ちたいこの命
湯島白梅お蔦のこころ知るや知らずや
なぜ散りいそぐ
春は名のみの切り通し

舞台で満場の紅涙を絞った「湯島の白梅」の名場面です。

ところが、泉鏡花の原作を読んでみると、この台詞はおろか湯島天神も出てきません。
実は、芝居のあまりの人気に鏡花自身が後年この台詞や湯島の境内を取り入れて『湯島の境内』という戯曲を書いたということです。
市川雷蔵主演の映画『婦系図』にはちゃんと出てきます。まさに雷蔵のはまり役ですね!

湯島境内(婦系図)

河上渓介詩
春日とよ曲

久しぶり髷も似合った二人連れ
梅もほころぶ境内で
嬉しい思いも束の間に
義理にせかれた切れ話
お蔦が涙なくなくも
くぐる鳥居の影暗く
月もおぼろの春の宵

白猫ナミ

こんにちは。
小唄の勉強のために小雨降るなか、吉原近辺を散策してきました。

隅田川
ジョッキに映し出されたスカイツリー

今戸神社
招き猫発祥の地、白猫に出会えるのは超ラッキーだそうです


山谷掘
約八丁(約900m)今は公園になってます

吉原
見返り柳、名残惜しくて吉原を振り返りました